香港のデモが第二の天安門になるんじゃないかと世界中がハラハラして見守る中―――というのがタイミング的に怖すぎるんですが、こうならなきゃいいという願いを込めて取り上げておきます。
『ピータールー マンチェスターの悲劇』(原題PETERLOO)です。
時代背景とあらすじ
ナポレオン戦争後の需要減・生産過剰で大不況に陥ったイギリス。労働者はといえば、超低賃金と、下院を牛耳る地主たちが作った穀物法(値段があるレベル以下の間は輸入停止)で瀕死の状態でした。
各地で穀物法廃止と選挙法改正を求める運動盛り上がり、ランカシャーでは、演説の名手ヘンリー・ハントを呼んで大集会を開くことに―――。
主催者側は、武力弾圧の口実を与えまいと、武器は持たせず、お祭り色満載で、『合法的な集会』アピールに努めるのですが、フランス革命でビビりまくりな治安判事達は、ハント達の逮捕に踏み切ります。
判事達の命を受けた義勇騎兵団は、壇上に立つハントを捕らえようと群衆の中に突っ込むのですが、次第に群衆への暴力がエスカレートし、ついにサーベルで斬りかかる事態に―――。
かくして、セント・ピーターズ・フィールドは、かつての戦場ウォータールー(ワーテルロー)さながらの地獄絵図となり、記者たちは、この事件を『ピータールーの虐殺』として広く世に知らしめようと誓うのでした。
この映画は誰に寄り添っているのか
例えば、映画『レ・ミゼラブル』で一番印象に残っているシーンは?と聞かれれば、結構な数の人が、ラマルク将軍の葬儀の車列に学生たちがよじ登り、『民衆の歌』を歌い出すシーンと答えるでしょう。
では『PETERLOO』ではどうかというと、この映画は、先に立ち上がって旗振った人達に結構冷たい。
印象に残ったシーンが二つあります。
一つは、大演説会の主導権をめぐって、言い争いをしている後ろで、印刷工が黙々と新聞を刷っているシーン。
そして、もう一つは「俺達の要求リストを受け入れなければ、王を牢にぶち込む!無理無理言う母さんは希望を失ってるんだ!」と息巻く息子に、母親が「むしろ希望しか残ってない。でも、小さなことから始めなきゃ。(But you have got to start small)」と答えるシーンです。
物を知らなければ正しい判断は出来ず、勝ち目のない敵に向かって行って自滅することになります。また、交渉しようにも、何がカードになるのかすら分かりません。
うっかり勝ってしまっても、倒した相手に代わって仕事をする準備が出来ていなければ、前より悪い状態に陥る可能性は結構高い。
そう考えると、この映画が言っていることは正しいように思います。
ただ、ちょっと引っかかるのは、交渉というのは切れるカードがあってこそ成り立つものだということです。
「一日でも収入が絶えたら飢えて死ぬ」「代わりの労働者がすぐに見つかる」な状態では、絶対にストは打てません。どんなブラックな条件も受け入れざるを得ないでしょう。
と、いろいろ考えていくと、手持ちのカードが殆どないという場合もありえるのです。
そんな場合の常套手段は「別の利害関係者を引っ張り込む」ですが、相手に「これ以上追い詰めたら、逆にやられるかもしれない」という恐怖を与えるしか手がない場合もあると思うのです。
とはいえ、実際にやってしまえば、負けは確定していますし、相手も「暴徒に屈した」という形は取れませんから、短期的にはより厳しい状況になるでしょう。相手としても、治安維持に多大なコストをかけざるをえなくなりますから、お互いに損です。
そんな事態を避けるためにも、初めから「とにかく話し合いましょう」ではなく「これは戦争に踏み切るかどうかのギリギリの交渉である」という気合と準備のほどが、相手に伝わるようにすべきでしょう。
日本人には、前者のタイプが非常に多いのですが。
新聞とは共闘できるのか
映画は、『ガーディアン紙創刊のきっかけとなった事件』という謳い文句にも表れている通り、そこはかとなくジャーナリズム礼賛風味。『報道と言論の力が、いつの日かこの犠牲者たちの望みをかなえる筈』的希望をチラ見させたところで終わっています。(まあ実際には、この後に、治安六法の時代が入るわけですが・・・)
でも、彼らはなぜ『ピータールーの虐殺』というキャッチーな名前まで付けて、この事件を世間に広く知らせたかったのでしょう。
この映画では、ロンドン・タイムズの記者が、何度も自慢げに紙名を口にしています。このタイムズというのは超大手で、最新の印刷機をぶん回し、大量の新聞を刷っていました。その投資は広告収入で回収。
政府から補助金を突っ込まれていないということを理由に中立と評されていたわけですが、代わりの収入源を考えれば、完全に中立である筈がない。当然、報道しない自由は行使していたでしょうし、角度をつける(笑)試みもあったでしょう。
ボロ新聞扱いされてたリーズ・マーキュリーがどういう新聞かは知りませんが、少なくとも、食うや食わずの労働者の金で成り立っていたわけではないと思います。
ではなぜ?というと、ぶっちゃけ広告主やメインの購買層の利害と労働者の利害が、ある部分で一致していたからではないかと思います。
下院が地主階級に独占されるのは我慢ならない。
穀物法で、労働者の生活費が高騰するのは困る。
後者は決して労働者への同情心からではなく、生活費高騰の結果起こる賃上げ要求や暴動や健康状態の悪化が怖いというわけです。
また、そもそもの話として、穀物法のような自由貿易を阻む法律は、彼らの好みに合いません。
彼らの悲劇を大々的に取り上げたのは、彼らのスポンサーの利益に適うからだったと考えた方が良いように思います。
現代においても、メディアには、スポンサーが喜ぶ内容、いつも情報をくれる組織が機嫌を損ねない情報、メインの購買層が気持ち良くなる情報、記者自らの『一般民衆を教育してやるぜ』欲求を満たす情報以外、取り上げる積極的な理由がありません。
それを理解した上で、利用するところは利用し、批判するところは批判するのが吉でしょう。
で、この後この人達ってどうなったの?
そこは法治国家です。
セント・ピーターズ・フィールドへの行進は平和的なものだったと認められ、起訴された十人のうち半数が無罪。禁固刑を食らった者も、刑期は数年でした。
抵抗した市民を「スパイに扇動された暴徒」と断じた光州事件とは違いますね。
ちなみに、いろいろ読んでみると必死で”平和的な集会”に見せるよう努力してたのは、ハントよりむしろバムフォードっぽいんですが、バムフォードの子孫、この映画観て怒らなかったんでしょうか。
37 Replies to “映画『ピータールー マンチェスターの悲劇』感想(ネタバレあり)”
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