マスコミや知識人は、いつまでBrexit賛成派の”教化”を試みるつもりなのか
12/12の選挙で、ボリス・ジョンソン氏率いる保守党が圧勝しました。これでイギリスの来年1月EU離脱はほぼ確定。
マスコミ各社は「意外な結果」とし、さらに「無学な貧乏人が、ポピュリストに乗せられて可哀そうに…」と、上から目線でため息つく姿が思い浮かぶような論評を載せています。
しかし、本当に彼らは、ただの”考えなしの愚か者”なのでしょうか?
目に映る現実が違う以上、結論が異なるのは仕方ない
季節柄、クリスマスっぽい映画を一本ご紹介します。仏独英合作の『戦場のアリア(Joyeux Noël)』です。第一次世界大戦中、塹壕に潜む兵士たちが、敵兵の歌声を聞いたことを切っ掛けに勝手にクリスマス休戦する話。
主人公っぽい歌手二人を中心に観ていると、ぶっちゃけムカつく話なのですが(笑)、実は『違う環境で、違う現実を見ている人達が、それぞれの頭で考えて行動し、自分の行動の結果に責任を取った(あるいは取らされた)』―――その辺りが実に丹念に描かれている作品です。
まずは、ムカ付き度MAXのヴィルヘルム皇太子&ソプラノ歌手アナ・ソレンセン(ダイアン・クルーガー)(笑)
彼らはクリスマスツリーざっと10万本を前線に送ろうとして「輸送は大砲より手間がかかる…」と兵站責任者にため息をつかせ、コンサートを開こうとして「200万もの兵が5か月間休まず戦っている。あなたのコンサートを開く余裕も必要もない」と反発されています。当然です。
しかし、アナは王室とのコネを使って結局コンサートを開き、「私には皇帝の通行証がある。どこにでも行けるわ」と言って夫(テノール歌手ニコラウス・シュプリンク)を戦線離脱させようと試み、形はどうあれ、とりあえずは成功します。
傍から見ると「いい加減にしてくれ」ですが(笑)、彼らは自分が我儘だとも独善的だとも思っていない。『特権階級が見る理想と現実』に基づいて、正しいと思う行いをしているだけです。
次は、クリスマス休戦に積極的に参加した兵士達。
12/24夜、塹壕に潜むドイツ軍兵士の耳に、まずパーマー神父(ゲイリー・ルイス)が奏でるバグパイプの音と、スコットランド兵達の歌が聞こえてきます。次の曲で、今度はニコラウスがそのバグパイプに合わせて歌い出し、これを切っ掛けに、なんと現場レベルでクリスマス休戦が成立。
翌日になっても彼らは、協力して遺体の埋葬を行い、サッカーに興じ、砲撃前には敵方に警告して自分たちの塹壕に避難させる事態に―――。
互いの歌声を聞いたことで、相手も現場で苦労している(させられている)同じ人間なのだと気付き、単純に「相手を殺すのが嫌だ」という気持ちになったのでしょう。
これは、彼らの立場からすれば自然なことです。
しかし、賛同できない人も当然います。例えば、直前の戦闘で兄を失ったジョナサン(スティーブン・ロバートソン)。
彼は、和気藹々と酒を酌み交わす兵士たちの姿を背に、兄の遺体を探し続けます。そして、雪に埋もれた遺体を見つけたところで、酒を持ったドイツ兵が声をかけてくる。
無表情で涙を流し、ゆらりと近づいてきた彼に、ドイツ兵は恐怖を感じて後退ります。
彼を「『赦し』を実践できなかったただの不信心者」と罵るのは簡単ですが、彼の身になって考えてみれば、ドイツ兵を殺さなかっただけでも、もう聖人レベルでしょう。
アナとニコラウスが塹壕の特別ユニットでぬくぬくしている時に、雪に半分埋もれながら兄の遺体と毛布にくるまっている彼の姿を見たときには、うっかり泣きそうになりました。
次は、パーマー神父に「教区に戻れ」と命じた司教。
「彼はお付の者に傘をささせ、立派な十字架をかけて現れる」というちょっとムカつく仕様(笑)になっていますが、ある意味、正論を吐いています。
「イブの晩、君のミサにあずかった者は、じき、ひどく後悔することになるだろう。国王陛下の命令により、あの隊は数日後に解散させられる。兵士たちは、どこの前線に送られるか分からん。彼らの家族の気持ちは?」
あの場に居たスコットランド兵がその後どうなったかは描かれていません。しかし、敵方で同じ立場のドイツ兵たちは、貨車に放り込まれて東部戦線送りになっています。彼らの運命も似たようなものでしょう。
また、「前線の兵士が敵味方一斉に全員戦意を失う」という無茶な状況を前提にしない限り、戦意の喪失は他国による自国の蹂躙・搾取を意味します。
司教は司教なりの理想と現実に基づいてモノを言っているわけです。(キリスト教信者として正しいかどうかはさておき)
パーマー神父は、「私は苦しむ者たちに仕えます。信仰を失った者たちにも」と言い、司教の言葉に「それが神の道でしょうか」と疑問を呈します。そして結局、十字架を捨て、教区の神父を辞めることで現場に残る道を選びます。
彼にとっては、現在の『キリスト教』の信徒であることよりも、イエスの生き方を実践することの方が重要だったということでしょう。
立派です。これは現世的には、とてつもない茨の道を歩むことを覚悟しなければ言えない台詞です。だからこそ、あのミサに参加した兵士たちにとっては、荷が重すぎたかもしれないとも思うのです。
結局は、置かれた環境、見てきた物事、その人の心のマインドセットによって、『正しい行い』は違ったものになるんじゃないでしょうか。
GDPが増えても賃金労働者は豊かになるとは限らない
さてBrexitです。
国民がこの選択をした理由としては、「欧州委員が勝手に決めたことに何で俺達が従わなきゃならないんだ!」とか「移民の大量流入で公共サービスは低下するわ、賃金は下がるわ、いい加減にしてくれ!」とか、まあ色々あると思いますが、新聞が盛んに書きたてていたのは後者の『反移民』です。
ぶっちゃけ彼らの懸念の多くは、もう既に起きているか、または近い将来必ず起こることです。
会社は慈善団体ではありません。
需要(求人)と供給(求職)、費用(賃金)対効果(成果)、そして法律―――この全てを勘案した上で、「給料を上げた方が儲かる」あるいは「給料を上げなければ会社が存続できない」ということを株主に納得させられなければ、賃金を上げることは出来ません。
上場していない企業であっても、そのような判断をしなければ、他社との競争に負けて倒産に追い込まれる可能性は高い。
「最近の経営者は、いくら儲かっても従業員に還元しない」とため息をつく評論家がいますが、正直「何を言ってるんだ?」です。
「賃金アップすりゃ、モチベーション爆上げで、めっちゃ儲かるようになるんですよ!」が証明できない限り、基本的には、その職務を遂行するだけの能力を持つ求職者を増やせば、賃金は法律が定める最低賃金に張り付く―――今の世の中は、そういうシステムになっているわけで、ここに経営者のモラルが入り込む余地はあまりない。
ボーダレス社会というのは、この流れを確実に助長します。
まず労働市場の需給バランスが「買い手市場」に傾き、「神の手」が決めるポイントが低賃金側に振れます。その上、生活必需品や教育費が安い地域に家族を持つ出稼ぎ労働者は、低い賃金でも手を打ちやすい。彼らは団結して労働争議をやる仲間にはなり得ないわけです。
こう考えると、人、モノ、カネの移動には、緩やかな(あくまで「緩やかな」)障壁を設け、『物やサービスを生み出す人が主な消費者である社会』を作った方が良い、という結論もアリでしょう。
今まで通りのコスト積み上げでは採算が取れないでしょうが、そもそも消費者の買えない値段で売るわけにはいきませんから、アホらしいほど高い役員報酬や、怪しい気な投資や、課長クラスにポストを用意するだけの部署が整理され、消費者が払う金額としてはそこそこに落ち着く可能性は高い―――。
人件費が高くなればIT投資が増し、将来的には多くの従業員が職を失うかもしれませんが、仕事の効率が上がり、税収が増えれば金をかけて人々に、時代に合った再教育を施すこともできるわけです。
そう絶望的な未来とばかりも言えない。
四半期の業績さえ上げれば良い雇われ社長や投資家はまず間違いなくEU離脱反対、学生も学校の制度がらみで同じでしょうが、事業を百年持続させたい同族会社の社長、賃金労働者には、また別の考え方をする人も出てくる筈です。その人の状況によって、望ましい環境は異なる。
にも拘わらず、マスコミや知識人は、それぞれの人の利害や心情に寄り添うことをしない。物を知らないバカ者がポピュリストに乗せられて自分の首を絞めていると思っている。そして、彼らが自分達の“教化”に乗ってこなければ、ため息をつきながら上から目線の記事を書く―――どうもこういうパターンが多いような気がします。
今の状況で、環境少年少女に賛否双方の声があるのは当然
グレタ・トゥーンベリさんを一躍有名人にした金曜デモ―――。
賞賛の声が上がる一方で、「ウィークデーに遊んでいられる子供に、今日食う物の心配をしなければならない俺達の気持ちが分かるか?」という反発の声が上がるのもまた自然なことです。
『子供は、金と暇のある人しか作れない贅沢品』になってしまった国(例えば日本)では、さらに一種独特な反発もあるでしょう。
気候変動は重大な問題です。ぶっちゃけ、地球の軌道の微妙な変化や火山活動の方が影響は大きいと思うのですが、このところの短期的な気温上昇については確かに人間の活動と関係がありそうです。
本来『一蓮托生』であるはずの人々の間に分断があるのはなぜかと言えば、環境活動家と言われる人達がこれまで、美しい『結果』だけ語り、『どうやって』―――とくに、それによって短期的に被害を受ける人々をどう救うのかについてあまり語ってこなかった所為ではないでしょうか。
小手先で出来ることなど、たかが知れています。
活動家が、なぜ「人口削減」を口にしないのか不思議です。
温室効果ガスを本気で減らそうとするなら、「産児制限」「生産活動の制限」といった、人権や自由を制限する手段も使わざるをえないでしょう。それには、子供が死なない医療体制や、マイナス成長でも人がまともに生きていける社会を確立する必要があります。
本気で『何か良いこと』をすれば、それによって少なくとも短期的には必ず被害を受ける人が出てくる。そういう人々が直面している問題を直視し、どうすれば被害を受けずに済むのかを考えて対策を立て、治安問題や暴力革命に至らない落としどころを見つけるのが大人の民主主義というものではないかと思います。
トランプの勝利、オルバンの勝利、ドイツのための選択肢(AfD)の躍進、イタリアの『同盟』の地方での巻き返し―――こうした事態に何度直面しても、まだマスコミや知識人は何も学んでいないように見えます。
声の大きい「趣味で人権問題やってます」「趣味で反戦やってます」な人々の顔色ばかりを窺い、声なき人々の切実な問題に無関心な左派政党も、同じ理由で存在意義を失っているように思います。
人々が偏狭になったと嘆く前に、もっとやるべきことがあるんじゃないでしょうか。
47 Replies to “映画『戦場のアリア』とBrexitと環境少女”
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