『Merry Christmas!~ロンドンに奇跡を起こした男(The Man Who Invented Christmas)~』観てきました。
登場人物のキャラ立ちが半端なく、セリフ回しや間の『笑える感じ』も最高…だったのですが、やはり後半になって原作読んだとき感じた違和感みたいなものを、思いっ切り感じてしまいましたね(笑)
スクルージ的結末は、原作とは違うものにしても良かった気がするんですが、それやると、やっぱりイギリス人は激おこなんでしょうか。
まずは、あらすじ的なところから先に、ざっとお伝えします。
映画は、『オリヴァー・ツイスト』で大成功を収めたディケンズ(ダン・スティーヴンス)が、アメリカの劇場で喝采を浴びているシーンから始まります。本人、鼻膨らませてご満悦…かと思いきや、実は「「I can’t wait to get home」(笑)。認められるのは嬉しくても、コミュ強に囲まれて、彼らと同程度のコミュ力を期待されるのは辛いらしいです。
そして、念願叶ってロンドンに帰ってきたものの、新作が全く売れず、新しいアイディアも浮かばず、自宅リフォーム代の支払いにも困る状況に―――。
そんな中、新入りメイドから聞いたケルトっぽい民話や、街で会った個性ありまくりな人々に触発され、クリスマスの幽霊話を書くことになります。
しかし、出版社は「クリスマスネタは受けない」「今から準備を始めてクリスマスに間に合うはずがない」と取り合わず…。
ならばと自費出版することにしたのですが、金はないし、散財が止められない親父はなぜかロンドンに出てきて家で大騒ぎをするしで、仕事に全く集中できません。
この父、実に傍若無人に振舞うくせに、本気で非難すると途端にしょぼくれるし、もうやりにくいったらない(笑)
それでもなんとかキャラの召喚に成功し、後は最終章を残すのみとなったのですが、結末(スクルージが、足の悪いティムを助けるかどうか)で、フォースターさん&メイドの女の子と対立。
ディケンズさんは一度は彼らの案を退けたものの、どうすればあの業突く張りのスクルージを一瞬にして回心させることができるのかと考え始めます。
そして締め切りが迫る中、『人生終わる恐怖』に苛まれて逆方向に弾けたディケンズさんは、自分の恐怖の源たる靴墨工場へと向かうのですが―――というお話。
スクルージさんと映画版ディケンズさんの共通点
この映画で、スクルージさんは明確にディケンズさんの影として書かれています。この二人の共通点は、身もフタもない言い方をしてしまえば、「他人に酷い目に遭わされようにするには、自分を強く見せるしかない」という強迫観念でしょう。
フォースターさんに、「でも、君はこの街が好きなんだろ?」と言われたディケンズさんは、こう答えます。
「No place for a man without money(金のない奴に居場所はないけどね)」
一方、スクルージさんは(映画の台詞にはありませんでしたが)、かつてフラれた彼女にこんなことを言っています。
「There is nothing on which it is so hard as poverty and there is nothing(貧乏ほどつらいことはない) and there is nothing it professes to condemn with such severity as the pursuit of wealth(そして富を追及することほど、激しく非難されることもない)」
「貧乏人だとさんざん蔑み、痛めつけておきながら、こっちが死ぬほど努力して金を得ると今度は金の亡者だと言って非難する。おかしいだろ」って話ですね。
それに対する彼女の答えはこうでした。
「You fear the world too much(あなたは世間を恐れすぎてる).All your other hopes have merged into the hope of being beyond the chance of its sordid reproach(他人から誹りを受けまいとするあまり、全ての望みを(『金儲け』という)ただ一色で塗りつぶしてしまったのよ)」
いやもう、「容赦ないな…」としか言いようがありませんね(笑)
映画では、この説教臭さを「美しくない」と見たのか、スクルージさんが金の亡者になった理由を訊かれたディケンズさんに、「Because he’s afraid」とだけ言わせています。
これは品のある纏め方だったと思います。
映画版では見えにくくなってしまった共通点
スクルージを過去に行かせなかったことで、見えにくくなってしまった共通点もあります。
原作版のスクルージさんは幼少期、父親に問題があって家族と住めず、おそらくはその所為で同級生にも仲間外れにされていました。そんな時代の自分を見せられて、「Poor boy!」と言うスクルージさん。続けて、「I wish, but it’s too late now」と呟きます。
これはものすごいセリフです。
当然のことながら、幽霊は聞き逃しません。どうしたんだと訊かれたスクルージさんは、こう答えます。
「There was a boy singing a Christmas Carol at my door last night. I should like to have given him something: that’s all(ただ、昨晩うちのドアのところに来て、クリスマス・キャロルを歌っていた少年に、何かやればよかったと、そう思っただけです)」
映画のディケンズさんは、この段階のスクルージさんのグレードアップ(?)版です。
過去の自分に同情しすぎて、似た境遇にある人間を片っ端から助けようとする。そしてそういう人を冷たくあしらう人間や、そういう人を生み出す人間を徹底的に攻撃する―――というより攻撃せずにはいられない―――そういう状態です。
過去の自分を憐れむ気持ちが他人への慈愛に結び付くと同時に、強烈な復讐心に変わっているのです。
スクルージさんとディケンズさんの行動は、結果的には真逆のものになっていますが、それは、ディケンズさんがトラウマ級の苛めを受けたことで、自分に対する同情心がより突き抜けてしまった所為でしょう。似た境遇の者への侮辱は、自分への侮辱と映るのです。
さらに、「自分は紳士なのだという矜持が、「自分のされたことを、そのまま社会に向かってやり返す卑賎な人間になることを許さない」という複雑な心理も加わっていると思われます。
いずれにせよ、彼らが自分を不幸だと感じ、自分には復讐する権利があると無意識に感じているのは確かでしょう。
映画に、人買いに連れられた小さな男の子と女の子が出てきますが、あの子供たちは、原作ではスクルージの影として描かれています。名前は『Ignorance(無知)』と『Want(欠乏)』。貪欲で恨みがましく、一方で人を恐れて平伏するような彼らの目つきに、スクルージは恐怖を覚えて後退り、ディケンズさんは我を忘れて彼らを連れて逃げた人買いを追いかけます。二人の過剰反応は、そこに自分の姿を見たからこそでしょう。
原作の第二の幽霊は、「とくにこの男の子(Ignorance)に注意するようにと」言います。それは破滅への道だと。
さて、スクルージさんとディケンズさんは、この破滅を避ることができたのでしょうか?
“self-made man”にとっての救いとは何か?
ディケンズさんの講演会の後、いかにも感じ悪そうな(笑)お金持ちが、本にケチをつけてきます。
彼は自分を”self-made man”だと言い、「私は誰の助けも借りず、自力で這い上がってきたんだ。貧乏人には救貧院ってものがあるだろう。そこへ行かせればいいじゃないか」と続けます。
ディケンズさんは、「どれだけ多くの人が、救貧院に行くよりも死を選んでいるかご存知ですか?」と問い、男はこう答えます。
「Then they’d better do it and reduce the surplus population(結構なことじゃないか。余計な人口を減らすことになる)」
これに対する反論ともいうべき言葉が、原作では第二の幽霊によって語られています。
「forbear that wicked cant until you have discovered What the surplus is, and Where it is.(『余計な』とは何か、それはどこにあるのか、それにお前が気付くまで、そういうふざけたことは口にするな) Will you decide what men shall live, what men shall die?(誰が生きるべきで誰が死ぬべきかを、お前が決めようというのか?) It may be, that in the sight of Heaven, you are more worthless and less fit to live than millions like this poor man’s child(神の目から見れば、数百万の貧しい子供達より、お前の方が生きる価値はないのだぞ)」
この台詞は、映画には登場していません。おそらく、製作者サイドが「神の説教として、しぶしぶ受け入れざるをえない」というのではなく、自分で気づくことが重要だと考えたからではないかと思います。
スクルージさんにとってのクズは、自分と同じように血を吐く努力をせず、人にたかるだけの貧乏人です。
そして、ディケンズさんにとってのクズは、自己抑制の弱さを恥じようともせず、自分のやっていることの重大さにも気づかず、子供を地獄に突き落として平然としている父です。
彼らの主張には一定の理があります。正直、私も彼らがこう思う気持ちはよく分かります。
でも、世界に広く目を向けず、また、怒りで想像力が鈍っているために、救いのない怒りと恨みを募らせ、他人を幸せにするという幸福感から自分を遠ざけているというのもまた事実なのではないでしょうか。(ただ、後で詳しく書きますが、この境界性人格障害っぽい父親に同情するというのは危うい面がある思います)
これは、エライ人に諭されて理解する類のものではなく、実際に見て、感じるしかありません。
足の悪いティム坊の死を単なる幽霊の予言ではなく、嘆き悲しむ家族という絵で見せた辺りは、”自力回心”の伏線としては十分なものでした。
でも、結局は、原作の「自分の墓を見る」という絵的に盛り上がる結末と、「こんなことを続けていれば、誰からも顧みられない惨めな死を迎えることになるぞ」というメッセージを無視するわけにはいかなかったんでしょう。その辺りが、なんともいえないラストの拍子抜け感となって出てしまったように思います。
せめて、「死を直前にした人間が最も後悔するのは何か?」という問いかけを、もっと前面に出した方がスッキリしたと思うんですけどね。
まあ、もっとスッキリする結末は、「幽霊に『過去や現在や未来の影に少しでも干渉すれば、お前の命を取る』と脅されていたスクルージが、ティムの命を衝動的に救ってしまい、幽霊となった後で、自分がさんざんディスられながら遺品片っ端から持って行かれるのを見て、『奇妙な話なんですがね。私はこれまで経験したこともないような、とても良い気分なんですよ』と呟いた途端、まだやることあんだろボケって現世に戻される」ってオチなんですけどね。
まあ、原作縛りがあるので、絶対にNGだと思いますが(笑)
でも、この父に同情するのって危険じゃないの?
「人それぞれ負ったハンデや苦しみに目を向けず、クズ呼ばわりすること」の危険性については、この映画で十分語られています。でも、「同情し、救おうとすることで自分が破滅し、相手も救われない」という危険性は無視して良いのでしょうか?
この父親には、境界性パーソナリティ障害の匂いがします。何があろうと全面的に同情する人が傍にいるところや、尽くすたび被害を受けてきた人が、逆に悪者に仕立て上げられるところも、まさにテンプレ(笑)
こういう、他人の同情を買うことに長けた虚言癖のある人間は取扱注意です。うっかりすると、何かと力になっていた側が、社会的に抹殺されてしまいます。
この映画は、父を理解し、許し、受け入れて大団円という作りになっていますが、私は個人的には、この二人は一緒に居ない方がいいと思っています。
確かに、この父には同情すべき点があります。彼が身を持ち崩したのは、紳士であろうとする矜持に見合うだけの力を持っていなかった所為で、それが要求される家に生まれてしまったのは彼の責任ではないわけです。
でも、彼はどこまでいっても現実と向き合おうとはしません。彼の中では「紳士である自分を紳士として扱わない世の中の方が悪い」なのです。結果、息子に実に罪作りな言葉を残して行きます。
”And remember! You’re the son of John Dickens! A gentleman! You be sure and tell them that! Well, come on then! Blood of iron, heart of ice”
紳士としての矜持を持っていては逆に生きていけない境遇に突き落としておきながらそれってさぁ…と思うのは私だけでしょうか?(笑)
この映画のディケンズさんは、この言葉にずっと縛られ続け、子供時代のトラウマも、この言葉によって作り出されたと言っても過言ではないと思います。
少年ディケンズさんが、靴墨工場に連れて来られたときのことを思い出してください。彼は、工員の少年たちの前で、監督官に「お前の父さんはどんな人だって?」と訊かれ、「My father is a gentleman(僕の父さんは、紳士なんだ)」と答えます。
工員の少年たちはいっせいに笑い、そして、吐き捨てるように「お前も俺らと同じだ」と言います。監督官がからかうようにあんなことを訊いたのも、おそらく、監督官にも同じことを言ったのでしょう。
ハッキリ言って、この状況で虐められるのは当たり前です。
ディケンズ父と少年ディケンズの苦しみが、「自分はお前らのような下賤な者ではない。紳士なのだから、紳士として扱われるべきだ」という選民意識と根拠のないプライドから来ていることはほぼ間違いないでしょう。
同情や施しよりも、まず等身大の自分に目を向けさせることが肝要な相手もいるのです。
自助努力の意欲もない相手に施し続けることで、本能的に感じる苦痛に目を背けることもまた危険だと思います。
「そういう輩は救貧院にやればいい。もし死んだところで、余計な人口を減らせるだけだ」という言葉を聞いて、皆さんはどう感じたでしょうか?
超階級社会だった当時のイギリスでこれを言うのは明らかに暴論です。でも、「今日の日本に当てはめて考えたら?」と言われたら、大きな犠牲を払って競争社会を生き抜いてきた人ほど、自分の中にこの言葉に賛同する部分があるのに気付くのではないでしょうか。
そりゃあそうです。プライベートな時間の相当部分を勉強に充ててる身として、「通勤中はゲーム、家に帰れば、あ~、疲れた~とビールを呷って眠り、休日はゴロ寝という人と給料が同じ」というのは、逆差別だろと思います。そういう人がリストラされだの給料が安いだと騒いでいるのを聞いても、正直「自業自得だろ」としか思えません。
冷静になって考えれば、そういう考えが結果的に正社員のハードルを上げ、自分の首を絞めているのだということは理解できます。そもそもスキル向上を全く期待されない人達もいます。ワークライフバランスを考えて、あえてそうしているのではなく、心ならずもそうした道に進んでいる人には、就職氷河期に当たってしまったとか、十分な教育投資を受けなかったとか、そもそも遺伝的に頭を使うことに向いていないとか、本人にはどうしようもない要因でそうなっている人も大勢いるのです。
加えて、重宝される人の特性は時代によって変化します。「今日無能扱いされた人が、五年後には超有能扱いされている」といったことはごく普通に起こりえます。ホワイトカラーはただでさえ求職者が殺到する職種で、しかもAIに置き換えやすいものです。自分の持ち札を過大評価していると、明日には要らない人扱いされ、スクルージ父と似たような苦しみを味わう可能性もあるのです。同時に、ある性質を持つ人達だけが子孫を残せるだけの厚遇を受ける社会というのは、人類の将来を考えれば危険なことです。
でも、自分がこれまで味わってきた苦しみに対する復讐心みたいなものがまず先に立ち、何をどうやっても「自分レベルに頑張ってきた人しか助けたくない」という気持ちが起こってしまう。これはもう仕方のないことでしょう。
感情は感情として横に置いておき、世の中を広く見つめた上で、何をどうするのが社会にとって最善の道なのかを冷静に判断すればいいのではないでしょうか。
無知と想像力の欠如によって、「助けたいと思う人の存在に気付けない不幸」を味わうのは損ですが、さもしい自分まで消す必要はないのだと思います。むしろ、自分の中に残る傷を認めて癒すことを考えた方が良い気がします。
所詮我々は、”sight of Heaven”には立てない、ただの人間ですからね。
スクルージの元カノの役回りをさせようとして失敗したディケンズ嫁
「Finest quality」を求めて笑顔で散在する嫁、そして「It’s damned expensive being a gentleman」と呟く旦那…。
「いやぁ、同情するわ」と思ってたら、実は旦那の願望叶えようと必死になってたっていうオチはスバラシイ。
でも、この嫁、スクルージの元カノレベルにはディケンズさんを理解していなかったんじゃないかと思います。
スクルージの元カノは、スクルージが尊ぶものが”A golden one“に変わってしまったと嘆いていました。このgoldは文字通り貴金属的なものです。
後に、ティムの父(ボブ)が息子の状態を「As good as gold」と表現していましたが、こちらは勿論比喩です。ただ、あえて同じ「gold」という言葉を使っていることから、スクルージが本来持っていた望みは、おそらくこういう存在を大事にできる世界を作ることだったのだろうと思います。
一方、ディケンズ嫁は、「I feel your characters matter more to you than your own flesh and blood(あなたにとっては、肉親や身内よりも自分の作り上げたキャラクターの方が大事なのよ)」と言っています。そして、締め切りに間に合わないと焦るディケンズさんに、はっきりと「他に優先することあるでしょう」という態度を取ります。
これはまるで「あなたの作品は、自分の評価を押し上げるための鎧に過ぎず、そんなことに必死になっているから貴方はいつまで経っても、自分も他人も幸せにできないのよ」と言っているように見えます。
こういった指摘は、スクルージさんのように心の底では自分の仕事を唾棄すべきものだと思っている人に対してなら妥当でしょうが、ディケンズさんに向けるものとしてはどうなのでしょう?
確かにディケンズさんは一角の人物であると思われることに強い拘りを持っています。でも、物語を生み出すことは、彼にとって単なる”手段”を超えています。
正直言って自分は彼女のこの言葉を聞いたとき、「仕事を天命だと感じ、これに全てをかけてるグレーゾーンアスペ諸氏を、今完全に敵に回したよね?」と思いましたね(笑)
単に「あそこまでやらなくたって暮らしていけるじゃない。それより人並みに家族とコミュニケーション取ってよ」なら、「そうだね。自分の作品に命かける芸術家は、そのそも嬉々としてパトロン役やる女性としか結婚しちゃダメだよね」と素直に同情します。
実際、激しく何かにのめり込む人間は、結婚に向いてません。一番譲れないものを譲らないためには、他のものは諦めるべきです。あれもこれも得ようとするのはワガママというものです。
でもこの映画の脚本は、「身近な人と、ごく普通の温かい人間関係を築くことだけが人の目指すべき道。それ以外は些末なこと」と言っているように聞こえるんですよね。
無理に苦手なことをやるより、手持ちの札で最も人の役に立つことをやった方が、他人も自分も幸せになれると思うんですけど(笑)
唯一絶対神のご高説と実体験、どっちを信用する?
この映画では、タラという名の新入りメイド(アイルランド人)が重要な役割を果たしています。あの『タラの丘』と同じ名というのはちょっとやり過ぎな気もしますが、名前の通り彼女は、イギリス人が考える『なんとなくケルト的なもの』の体現者となっているようです。
ケルト的世界観といえば、自然崇拝とか、
さて、神に「真実はこうであるぞ。だから言う通りにしなさい」と諭されるのと、実際死んだ人に、「いやー、死んでみたらマジ後悔したわ」と言われ、自分もそれを疑似体験するのと、果たしてどっちが効くんでしょう。
まあ、大抵の人は後者だと思います(笑)
ディケンズさんは、「バカは実際に痛い目をみなきゃ分からない」という意味で後者の展開を選んだような気もするのですが、体験というものにはそれ以上に意味があると思います。要は、神様のお言葉=『転ばぬ先の杖』に盲目的に従った人は、その杖の真の価値を理解しているのか?ということです。
原作の最終章に、生まれ変わったスクルージを評したこんな言葉があります。
“He became as good a friend, as good a master, and as good a man, as the good old city knew, or any other good old city, town, or borough, in the good old world”
これは彼がとことん逆のことをやってみて、それが人にどんな影響を与え、自分に何をもたらしたのかを全て見てきた結果ではないでしょうか?
また、一度どん底に落ちてみて、その暮らしの中で、ちょっとした人の思いやりに触れた体験も一役買ってはいないでしょうか?
クリスマスの晩、店を早じまいして家庭舞踏会を開いてくれた奉公先の主人夫婦の行為を「下らない」と言われたスクルージは、むきになってこう反論します。
「He has the power to render us happy or unhappy(あの人は、私たちを幸福にも不幸にもする力を持ってるんです); to make our service light or burdensome; a pleasure or a toil(私たちの仕事を軽くも重くも、また、楽しくも苦しくもできる)」
「The happiness he gives, is quite as great as if it cost a fortune(あの人が与えてくれた幸福は、莫大なお金をかけてくれたのと同じくらいの価値があるんです)」
自分の惨めな死を目の当たりにする前に、スクルージさんはもうここまで気づいています。この言葉には、「人から聞いたちょっといい言葉を、訳知り顔で口にしてみた」という軽さは一切感じられません。
これまで酷い生き方をしてきた人ほど、「too late」と諦める必要はないということを実感しますね。
原作に引っ張られたオチはどうにも釈然としなかった(笑) でも、「いろいろと考えさせられる」という意味ではとても良い映画でした。