本日は映画の話です。(ピカイチレポをご覧になりたい方はコチラ)
いやぁ、年明け早々、ヘビーな映画を見てしまいました。独英映画“BLACK DEATH”です。これが予想外に(←失礼な)面白かった。
ムービープラスさんで、これからも放送があるようなので、タイトル見たたけで観る気失くされてた方は是非とも!(笑)
というわけで、ここから先は観た方のみお読みください。(盛大なネタバレを含みます)
ストーリー(※ネタバレ注意)
時は百年戦争初期。イングランドが、ロングボウとかいう素人にはお勧めできない武器を使ってクレシーの戦いに勝ち、調子に乗ってカレーを占領した直後ぐらい。この頃、巷では黒死病(ペスト)が大流行しています。
ある日、司教の特命使節だというウルリク(ショーン・ビーン)が修道院を訪れ、「黒死病の出ていない聖域のような村があるらしい。視察に行くから案内人を出せ」と要求してきます。それに名乗りを上げたのが、修道士オズマンド(エディ・レッドメイン)。
この人、ちょうど、彼女を守って故郷に戻るか、このまま修道院に留まるかで悩んでいまして、これを「神の答えだ」と受け取ったのでした。
でも、実はウルリク達が受けていた命令は、悪魔崇拝の指導者であるネクロマンサー(屍術師)を捕らえること。
オズマンドは「ネクロマンサーを狩ることが、神への奉仕になるとは思えない」と言いますが、ウルリクは「いずれ分かる」と完全に子ども扱い。これが冗談じゃなかったところが、この映画の救いのないところ。―――と、話を先に進めましょう。
道中、つい彼女との待ち合わせ場所に足を運んでしまい、彼女が殺されたらしいと気付いてしまうなど、いろいろとハードな事態に遭遇しながらも、なんとか目的の村に到達。
ここで一行は、やたらめったら薬草に詳しい女性に歓待されるのですが(←なぜここで警戒しない)、薬を盛られて、”your vengeful God”を捨てるか死ぬか、好きな方を選べと迫られます。
彼女はさらに、オズマンドに、自分が魔術で蘇らせた恋人と暮らせと誘いますが、オズマンドは恋人を刺して悪魔から解放し、ウルリックは黒死病特有の脇の下の腫れを曝しながら、自分こそが”死”であり、これは神の怒りの雨だと叫んで、そのまま腕をもがれます。
その隙に、ウルフスタン(ジョン・リンチ)とモルド(ジョニー・ハリス)が、縛られていた縄を切って逆襲。村はパニック状態に。(こいつらどんだけ強いの?)
ここにいては危険だと判断した女は去り、後を追うオズマンド。やがて、霧の向こうから女の声が聞こえてきます。
“Thou shall not kill.Remember?(汝、殺すなかれよ。忘れたの?)”
実は、彼女は薬を使われていただけで、死んでいなかった。殺したのはあなただと言うのです。
半狂乱になって「彼女を生き返られてくれ」というオズマンドに、女は冷たく言い放ちます。
“Pray to your God(あなたの神に祈ってみれば?)”
ボロボロになって修道院に帰ったオズマンドは、その後、ウルリクと同じ道を辿ります。
そして村は、ウルリクが自分の死と引き換えに撒き散らした病原菌により全滅。「結局、それまで村が安全だったのは、魔術に守られていたのではなく、病原菌を持った者が足を踏み入れていなかっただけ」というオチでした。
不条理、あるいは単純な因果律を認めることが出来なかった人間の悲劇
「中世」「霧深い大湿原」「美しきネクロマンサー」といういかにも安っぽいゴシックホラー的キーワードとは裏腹に、この物語は徹底的に超常現象を排しています。
この物語において人の生死は、本人が望むと望まざるとに関わらず、本人や社会がそれまで行ってきたことや偶然によって決まるもので、そこに神の意図は全く感じられません。でも、そこに住む人達には、そうは思っていない。
オズマンドは神に向かって「give me a sign」とひたすら祈り、ウルリク一行の到来を”神の答え”と受け取ります。彼の本能は、神の沈黙に疑問を感じ、「村に帰って、直接彼女や村人の助けになる仕事をすることこそ善き行いではないか」と感じているにも関わらずです。
結果、彼は恋人を殺し、その所業を”誰かの所為”にして、復讐の道を突き進むことになります。
ウルリクに対して、かつて「I believe that hunting necromancers and demons serves men more than it serves god(ネクロマンサーや悪魔を狩っても、神への奉仕にはならない)」と反論していたオズマンドが、です。
ウルリクは、”オズマンドの未来”として描かれていますが、オズマンドに比べて、もうちょっと複雑な人です。
口では、妻子が死んだのは悪魔崇拝者たちの所為だと言って、彼らを狩ることを正当化しながら、それを神の求心力低下防止策の一つでしかないと取れるようなセリフも吐いています。魔女狩りに遭った女性を、魔女ではないと分かっていて”楽に”してやるシーンもあります。
極めつけは、彼の死にざまです。彼は脇に出来たコブを村人に見せつけ、こう叫びます。
“I am Death. Vengeance is mine. God’s fury rains down on you. God is restored”
このfury rainsは、彼のもがれた腕から飛び散った病原菌です。彼は、極めて現実的なやり方で、神の鉄槌を演出しているのです。『自ら罰を与える人格神』を盲目的に信じるには、人生経験を積み過ぎていたということでしょう。そして、同じ理由で迷える人々は、そういう神の存在を信じなければ世の中がカオス状態になってしまうと思っている。
この辺が「人の役に立つって、普通に気持ち良いよね」的な緩い日本人の感性では理解し難いものがあるのですが、とにかく、自分の命を懸けても、神の存在は証明しなければならなかったということでしょう。
ただ、これを全てはっきりと自覚して、腹を据えて行動していたようにも見えないんですよね。その証拠に、彼はオズマンドにネクロマンサーを狩ることの意義について語った後、こう言っています。
“Demons and necromancers are among us.”
字幕では「悪魔は我々の中にいる」と訳されていましたが、日本人がこの字面から受けるイメージ「in our hearts」とは随分違うニュアンスです。自分達のすぐ傍に素知らぬ顔で暮らしている悪魔憑きどもが災厄の原因なんだと言わんばかりです。妻子の悲惨な死を誰かの所為にしたいという誘惑は、それほどまでに強かったということでしょう。
まあ、司教のようなエライ方々からもお墨付きをいただいてるんですから、逆に、その穴に落ちない方がおかしいんですけど。
だからって、スピリチュアル的自己責任論もどうかと…
国王軍に居たというウルフスタンは、イングランド軍が、ロングボウ兵を組織的に使ってフランス軍を叩きのめしたクレシーの戦いに参加しています。こうしたタイプの戦いでは、騎士の時代のように”ミセリコルデ(脇から心臓を刺して、苦しまずに死なせること)”に拘っている暇はない。―――のは当然ですが、さらにイングランド王は、残忍な方法で皆殺しを命じます。
当時の凄惨な光景を思い出しながら、ウルフスタンはこう付け加えます。
“We invited Death among us that day”
この言葉に、「神の怒りに触れ、神がこの罰を与えた」というニュアンスはありません。ウルリクと同じ「among us」という言葉を使ってはいても、それは単なる結果です。原因は、我々自身の行いにあり、我々自身がそれを呼び寄せたのだと言っているのです。
『スケープゴートを血祭りに上げてスッキリ』の対極をいくこの言葉は、非常に立派です。が、ペストはどう考えてもヒト・モノの移動がもたらしたもので、技術や社会構造のある段階で必然的に起こるものでしょう。原因があって結果があるという意味では必然でも、それを悪事に対する報いとするのは無理があります。こういうことまで、「○○の報いだ」とか「自分がしたことの意味を知るために、自らその苦しみを望んだのだ」とか言い出すと、その状態が看過されることにもなりかねません。
この物語で、因果応報の姿を見るべきは、全く別の部分なんじゃないかと思います。とくに日本人にとっては。
魔女の復讐
女は、「私の夫は、神に仕える者達に殺された」と言いました。理由は、彼女が薬学の知識を持っていることから、だいたい想像がつきます。教会にとっては、ペストを悪魔の仕業だの神の罰だのと考え、ひたすら神に(というより教会に)縋るような人間だけが善き人々、そうでない人々はいかがわしい悪魔崇拝者というわけです。
彼女は、教会によるこうした抑圧を、”Thirteen centuries of control and intimidation”と表現しています。実際、その通りだと思います。
ではなぜ、彼女はこうした体制を打ち倒す戦いに身を投じるのではなく、教会の言う”神”と同じやり方で人を盲目的に従わせ、それを復讐の手段としたのでしょうか。
これは想像ですが、彼女の夫や彼女に同情する人が一人も居なかったからではないかと思います。病気を治してもらった時には感謝の言葉を口にしながら、いざ悪魔崇拝者だと名指しされると、寄ってたかって石を投げる―――そんな状況だったんじゃないでしょうか。
人々は美しい奇跡をなす人、立派な地位にある人の言うことに盲目的に従うだけ。
“Why follow her?”
“Because she was beautiful”
です。
奇跡を演じて人々を信じさせ、そして、その信じたものが紛い物だと思知らせること、夫が受けた仕打ちをそのまま、魔女狩りをする人間に対して向けること、おそらくはそのどちらもが彼女の復讐です。
ウルリク達の死も、オズマンドの絶望も、村の全滅も、思考停止によって平気で非道な行いをした報いという訳です。
一番最初に死ぬことになったのが、おそらくは酒と薬で拷問について口を滑らせていたと思われるダリワグだったこと、彼が処刑人に「Now you will learn about pain」と声をかけられていることは象徴的です。
日本人が、魔女狩りをやり切るだけの強い信仰を持てるとは思いませんが、無自覚に同調圧力に加担することで、あるいは追い詰められた人を見て見ぬふりをすることで、人を亡き者にしてしまう危険性は結構高いと思います。
気を付けましょう。というか、気を付けます(笑)
で、宗教って結局人の役に立ってるの?
この映画のタイトルを見て、まず思い浮かんだのは(大抵の方がそうじゃないかと思いますが)アルベール・カミュの小説、『ペスト』です。この小説、とんでもない惨禍を描いていながら、奇妙なあったかさを感じる作品です。
それは、「神によって仕組まれた意味なんて無くても、それぞれの人が、それぞれ可能な範囲で、それぞれ意味があると思う何かをこの世界に付け加えることが出来ればそれでいいじゃないか」的な諦観と、そこから生まれる前向きな何かを感じたからだと思います。ぶっちゃけ、裁判官のような神とか、「お前の行くべき道はこっちだよ」とサインをくれる神なんか居なくても、様々な知識を付けた上で、心の底から自分が喜ぶことをすれば、大抵の人がそこそこまともになるような気がするんですけどね(あくまで「大抵の人」が)。人類って、集団の力で生き延びてきた種ですし―――。
でもキリスト教圏やイスラム教圏では、ウルリクの懸念の方がはるかにリアルなのかもしれません(前回取り上げたクリスマスキャロルなんかを見ても(笑))。実際、人間にとってどちらが薬になるのか分かりません。
昔、兵頭二十八さんという方が、「人間は一生の間に、たった一つの秩序、たった一つの世界にしか慣れることが出来ない」と仰っていましたが、その一つの秩序に沿った方法を選ぶしかないということかもしれませんね。
いずれにしても、人が、聖典にある神の言葉や、そのスジの権威の言葉を、無意識に自分の弱さを肯定するために使い、それを無批判に行動に移してしまう傾向を持っているという自覚は持った方が良いように思います。
「などと長々と語ることはあるまい」と思わせてしまったことがこの映画の敗因
だと思います(笑)。
たって邦題見れば、アッタマ悪そうな勧善懲悪モノに見えるし、映像見れば、安いゴシックホラー映画としか思えない。
でも、これはリアルな作品だと言った瞬間、ある程度あのオチが想像できてしまうわけで、それは出来なかったんでしょう。ボロミア様で客引きしたのは、ある意味妥当な戦略だったのかもしれません。
こんな作品が他にも埋もれているかもしれないと思うと、ちょっとコワいですね。