『自尊心』と『羨望』という心の内にあるバケモノを全く逆の視点で描いた作品。
スターチャンネルさんとムービープラスさんで、なぜか同時期に放送されました。ジュード・ロウ繋がりで(笑)、まとめて観た方も多いのではないかと思い、まとめて感想ぶちまけてみます。
※盛大なネタバレを含みます。必ず映画をご覧になってからお読みください。
『ガタカ』の悲惨すぎる結末
『切ないハッピーエンド』と解釈する向きもあるかと思いますが、個人的な感想としては「これほど悲惨なラストもないのでないか」と…。
『ガタカ(Gattaca)』の主人公、ヴィンセント・フリーマン(イーサン・ホーク)は、遺伝子検査の結果で全てが決まる社会で”不適合者”として生まれ、10歳にして8歳の弟に身長抜かれるわ、教師には「心臓弱い子は面倒みられない」と突き放されるわ、「宇宙飛行士になりたい」と言えば親に「絶対無理」とあしらわれるわと、悲惨な少年時代を過ごしました。
そんな彼が頼ったのが、現代で言う『背乗り』ビジネス(いや、ちょっとチガウ…)。適合者に検査のサンプルを提供して貰いながら、その人に成り代わって生活するというものです。
サンプルの提供者として紹介されたのは、足に障害のある水泳の元銀メダリスト、ジェローム・ユージーン・モロー(ジュード・ロウ)でした。
彼は最高の遺伝的形質を持ちながら、金メダルが取れなかったという現実に耐えきれず、自殺未遂を起こした過去を持っています。(足が不自由になったのはおそらくそれが原因)
ジェロームが提供したサンプルで、ヴィンセントは”宇宙に行ける”企業に入社を果たし、厳しい競争を勝ち抜き、ついに宇宙飛行士になるという夢を叶えます―――というと、『ハンディキャップを克服して偉業を成し遂げた』的感動話っぽいですが、この物語から受けるイメージは全く違う。
ジェロームは、ヴィンセントの旅立ちを見届けると、“かつてやりそこなったこと”を完遂します。その方法は、ちょっと口にできないようなものです。(初めて観た時は、ぶっちゃけトラウマになりました…)
ヴィンセントの嘘がバレないようにするには、まああれしかないわけですが、それだけではないものも感じてしまうわけで…。
まるで、「ヴィンセントを宇宙に送り出すことが、自分の唯一成し遂げた善いこと」であり、残された自分はただのゴミクズだと言っているようです。
一方のヴィンセント―――。
彼は自分で「僕の心臓は限界にきている」と言っていますし、宇宙船に乗る「一年は長い」とも言っています。彼が再び地球の土を踏むことはないような気がします。自分の体験を何かに生かすことも、おそらくはない。
そんな、ごく短い自己満足のために、ジェロームを犠牲にしたことを彼は自覚している筈です。一年分には多すぎるサンプルを渡されたら、嫌でも気づくでしょう。
それでも、自分達にはこの道しか選べない―――最高ではないが、お互い最良の結末だと思っている。
傍から見ればいくらでも道はあるんですが、とにかくそう思い込んでる。
なぜでしょう?
彼らの悲劇は、『この世界に対して、何ができるのか』『何をしたいのか』ではなく『自分がどんな存在であるか』にとらわれ過ぎた結果のような気がして仕方ありません。
『スターリングラード』の二人が乗り越えたもの
『スターリングラード(Enemy at the Gates)』は、射撃の名手である羊飼いの青年ヴァシリ・ザイツェフ(ジュード・ロウ)が、第二級政治将校ダニロフ(ジョセフ・ファインズ)の『士気を高めよう作戦』で英雄に祭り上げられていくお話です。
といっても、祭り上げられた方は異常なほどに謙虚。
誉められれば「身に余る誉め言葉」だと言い、超有名人になっても”I am a stone(俺は石だ)“と呟きながらボロ布の下でひたすら敵を待っている。
ファンレターを貰えば、寝る間を惜しんで返事を書き、ダニロフに得意げにスペルミスを注意されてもムッとしたりしない。
「返事はもう明日にして休んだら?」と言われても、「せっかく手紙をくれたんだ」「今日書いておかないと明日はどうなるか分からない」「戦ってるのは俺だけじゃない」と笑顔でペンを握り続けます。
そして、飲んで騒ぐ兵士達を見ては、死ぬ覚悟をしているから、生きてるだけでボーナスだと言って笑うのです。
いや、もう「オマエは聖人か!?」という感じですが、そんな彼でも、ダニロフのような人間に対する羨望の気持ちは持っています。
ターニャに再会した時も、「見覚えが」と言われてちょっと喜び、「新聞の写真を見た」と言われてがっかりといった具合。「ダニロフが作り上げた虚像にしか魅力がないのか」とフツーに落ち込んでるわけです。
「ダニロフはあなたが彼(ケーニッヒ少佐)をやると―――」と言われれば、二人はそういう会話を自然に交わす間柄なんだと思い、複雑な顔もする。
ターニャに本部に戻るよう説得したときも、かつて、祖父に連れられて行った工場で見かけたマネージャーに憧れ、あんなふうにになりたいと思ったと話しています。
でも彼はそれを実現しない夢だと言い、君やダニロフのような教育を受けた人間は、戦後復興の役に立つから生き残らなければならないと言うのです。
ターニャが「あなたも生き残れる」と言っても笑って答えず、撮影用の正装を見た彼女に「その服、返さないで」と言われても「無理だよ」と苦笑します。
コレ、自己啓発本の信者辺りからは、まず「後ろ向き」だの「自己肯定感が足りない」だのって突っ込み入りますよね(笑)。でも、その指摘は本当に正しいのでしょうか。
彼の中にあるのは、消極的な諦めではなく、ありえないほど前向きな”覚悟”なんじゃないでしょうか。
一方のダニロフ―――。
彼はユダヤ人です。
「ユダヤ人差別」と言うとナチスばかりが有名ですが、ロシアのポグロムだって相当なものでした。
比較的平穏な時期であっても、「ユダヤ人は学校にも10%枠を越えては入れなかった」だとか、「教師に『ユダヤっ子』と言われた」といったことはあったようです。(トロツキーとかいう人の自伝によると(笑))
彼らにとって、ロシア帝国の存在は、差別を固定化するシステムだったわけで、私情として「ぶっ倒したい」と思うのは当然。
ダニロフが、平等を謳ったソ連というシステムに幻想を抱いてしまったのも無理はありません。
でも、どんな仕組みを作ろうとも人は平等ではありえない。
ヴァシリが、じゃれるような殴り合いを仕掛けて来たとき、彼は笑いながら「眼鏡が壊れる」と言っていましたが、あれは子供時代には結構深刻な問題です。メガネかけた、ケンカにあまり強くない子は、それだけで見下しの対象になりかねません。
「努力して、周りがぐうの音も出ない程エラくなりゃいいじゃん」というのも、そう簡単じゃない。
彼は、ターニャがモスクワ大で学んでいたと聞いたとき、口の中で「モスクワ、モスクワ…」と繰り返しています。モスクワ大といえば超一流校です。
↑モスクワ行ったとき撮った現在の建物(スターリンゴシックで有名)
おそらく彼は元々頭が良く、その上に、とても努力したのでしょう。それでも、とてもモスクワ大などに行ける状況にはなかった―――そんなところじゃないでしょうか。
彼は、必死で彼女に『デキる男』アピールをするのですが、彼女が選んだのはヴァシリ。
嫉妬にかられた彼は、ヴァシリを中傷するネタをガンガン上に報告し始めます。
しかし、そんなことをしているうちにドイツの猛攻が始まって負傷、ターニャは瀕死の重傷を負います(ちなみに、ダニロフは彼女が死んだと思っています)。
彼は最後に、ヴァシリに向かってこんな話をします。
“We tried so hard to create a society that was equal, where there’d be nothing to envy your neighbor. But there’s always something to envy. A smile. A friendship. Something you don’t have and want to appropriate“(隣人を羨むことのない平等の社会を築こうとした。でも羨望というものは消えることがない。微笑み。友情―――自分にないものを欲しがる)
“In this world, even a Soviet one…there will always be rich and poor“(この世界には、ソヴィエトにさえ貧富の差がある)
“Rich in gifts. Poor in gifts. Rich in love. Poor in love“(才能に恵まれる者、恵まれない者。愛に恵まれる者、恵まれない者)
“She was right. You’re a good man“(彼女は正しかった。君は良い人間だ)
“I want to help you. Let me do one last thing. Something useful for a change“(君の助けになりたい。最後に一つだけ、役に立つことをさせてくれ)
彼は、自分が犠牲になることでケーニッヒ少佐の居場所をヴァシリに知らせ、少佐を倒したヴァシリは、少佐のライフルをダニロフの遺体に抱えさせます。
“We did it together!“―――これは、かつてダニロフがヴァシリに向かって言った台詞ですが、同じものをヴァシリはその行為で返すのです。
そして、ダニロフが最後に口にしたこの”useful“という言葉―――これはヴァシリが何度も使っている言葉です。
この映画のヴァシリは、『自分がどんな人間であるか』、『どんな評価を受けるか』という意識が他人より薄いように見えます。それよりも、『“今ここで自分に出来ること”で、何かの助けになること』を考えている。
だから、やれることは進んでやり、無理だと思えば格好をつけずに素直にそう言う。ダニロフがインテリ風を吹かせても、馬鹿にされたと腹を立てたりしない。「ああ、俺は無学なんだなぁ」と思い、素直にスペルを直す。
とてつもなくナチュラルです。
ダニロフが尋常でない嫉妬を覚えたのは、「ぽっと出の田舎者がいきなり”英雄”になり、いいなと思ってた女性まで取られた」という下世話な話ではなく、こういった、
しかし、ダニロフは最後に「彼女は正しかった。君は良い人間だ」と認めることができました。それで、ようやく楽になれたのです。
『我』を捨てることが、どれだけ重荷を捨てることになるのか―――この辺のことを、世の疲れ切ったビジネスエリートは、今一度考え直した方が良いんじゃないでしょうか。
じゃあ『ガタカ』の二人はどうすりゃよかったの?
映画としての余韻もクソもありませんが、あったことを全て公表して、遺伝子検査で全てを決めるシステムのバカバカしさを知らしめりゃ良かったんじゃないかと思います。
ガタカの同僚はヴィンセントの顔を知っていて、サンプル提供者のジェロームは地球に残っているわけですから、どうやったって嘘だとは言いようがない。
そして、”不適合者”であったヴィンセントが優秀であったのも、紛れもない事実です。
彼らは二人とも自分の黒歴史を赤裸々に語る必要に迫られ、ヴィンセントを見逃したドクターにも迷惑はかかるでしょうが、それで多くの『失意のまま無為に死んでいく不適合者』が救われる可能性があるんですから、やる価値はあります。
結局のところ、ヴィンセントは、弟に身長を抜かれ、親に「宇宙飛行士なんて無理だ」と言われた屈辱的な体験から、彼らより優秀な人間になり、彼らよりも高みに上りたいと願い、それを実行したに過ぎないように見えてしまいます。
ジェロームも、かつて自殺未遂を起こした頃からあまり変わってはいません。
二人とも『自分が』『××であること』への囚われから脱することが出来なかった―――あのラストに、正視に堪えないレベルの悲惨さを感じてしまうのは、そんなふうに見えるからだと思います。
ハンディを克服するのが無駄な場合もある
ヴァシリは自分の得意なことで勝負して英雄になり、ヴィンセントは苦手であるからこそ努力して大成しました。
ドラマや映画ではとかく後者が取り上げられがちなのですが、このパターンをあまりに持ち上げるのは危険だと思うのです。
「それがあるために、他の良いところが台無し」という場合、苦手は絶対に克服すべきです。代表格は、極端なコミュ障(笑)。これがあると技術者としてすらやっていけません。
でも、苦手なものを中心に据えて、これで大成して見せるぜ!というのはどうでしょう。
ぶっちゃけ、「苦手なのによく頑張ったね」と言って貰えるのは学生のうちだけです。その職業を選んでしまえば、元々得意な人と肩を並べてやっていかなければならない。人並みの結果を出すために、一生、人の何倍もの努力を強いられることになります。
それって、エネルギーの無駄遣いではないでしょうか?
得意なことで頑張った方が、明らかに成果は出る。結果、人の役にも立つのではないでしょうか?
ヴィンセントは、『デザイナーベイビー』が普通という時代にあって、『三十歳まで持たない』と言われた珍しい人間です。他人の経験しないことを経験している。
宇宙行った後の盛大なネタばらしで”革命”を起こす気がないなら、宗教家でも小説可家でも飲み屋のオヤジ兼カウンセラーでも良い、とにかくそれを生かすことをすれば良かったのでは?というのが正直な感想です。
少なくとも体力必須の宇宙飛行士になろうと頑張るよりは、ずっと社会に貢献できた筈です。
ヴァシリの言う”useful”には、決して「役立たずには生きる資格がない」という冷たさはありません。狼とロバの例えは、一見そう見えてしまうのですが、もっとずっと深い意味を持っているように思います。
自分が『××な存在になること』に意味はない、今ここに“与えるものがあること”が幸福だ―――そういうアタマに切り替えた方が、自分も世界もハッピーになれるような気がします。
オマケ
モスクワ地下鉄革命広場駅で見つけた、なんとなくジュード版ヴァシリさんに似てる人(笑)
他の像も見たい方はコチラをどうぞ。