ヴァルキューレ作戦の五年も前にヒトラー暗殺を企てたゲオルク・エルザーを主人公にした映画。「どうせ、反ナチスの新しい英雄掘り起こし作戦でしょ?」という感じで斜に構えて見ると、良い意味で裏切られます。
でも、「ここまで反体制の闘士disって、スポンサーに文句言われなかったの?」と思ってしまったのは自分だけでしょうか?
とりあえず感想は後にして、まずざっくりとしたストーリーを書きますと、
いろんな女に手を出しまくってた自由人(そこそこ教養ある職人)が、ユダヤ人と付き合ってるだけで晒し者にされた女性や、それを見て笑う人々や、赤色戦線シンパの友人の収容所体験談や、ゲルニカ爆撃のニュースなんぞに触れるうち、「なんかヤバいんじゃね?」と気づいて、ヒトラー爆殺を謀るも失敗、銃殺。でもそれより早く、彼を追及していた刑事警察長官が謀反バレで縛り首になりましたというお話。(←端折り過ぎだろ)
この映画、とにかく主人公を全くageてないのがスゴイ。
ラスト字幕で「エルザ―が反体制の闘士として認められるまでに数十年を要した」と、いかにも功績を認めるような文を流していますが、ぶっちゃけ本編では、『サブカル系中二病こじらせた自称インテリ自由人が、自己実現のために”反体制”というツールを利用しました』としか見えないんですよ。
「分かっているのはオレだけ。今のお前らには、どうせ何を言っても理解できない。数年後に気付いて後悔しろ」って感じです。
彼の周りには、飲んだくれの父親や、出来ちゃった婚した母親や、ナチス威を借りる党員や、効果の見えない暴力を繰り返す反体制派や、ナチスの洗脳に染まって人権侵害に加担する人々や、その他大勢の無関心な人々が居るわけですが、彼はそれらを視線や短い言葉で非難するだけで、殆ど誰ともまともに話そうとしません。心の中で見下して、一線引いているように見えます。
まあ、実際には話し合いが良い結果を生むことは稀なわけで、利口と言えば利口。でも、根は奔放だと思ってた不倫相手のエルザが子供産んで妙に堅実なこと言い出した途端、暗殺計画に前のめりになるあたり、この人は基本的に他人と協調して何かを成し遂げる意欲と能力に欠けてるんじゃないかと思いますね。
ラスト近く、彼は取調室で国の行く末を憂う大演説をぶつわけですが、これこそが彼の晴れ舞台でしょう。
後に反体制派に寝返るアルトゥール・ネーベは顔をこわばらせ、タイピストの女性は涙を流します。彼女に託した遺族と家族へのへ謝罪の言葉は、自分の主張とともにいずれ世間に伝わる筈。まあ、彼としては十分満足のいく結果だったんじゃないでしょうか。
この映画におけるゲオルクは、最後まで”独り”であり、基本的に、自分がどうあるかにしか興味がなかったように見えます。似たような気質を持ちながら、ミュンヘン一揆の失敗で、やり方を変えたヒトラーとは対照的ですね。
でもナゾなのは、「なぜ彼をそういう人物として描いたのか」。
高潔な人物にした方が”さる方面”の受けはいいだろうし、共感できる人間に描いた方が観客の受けも良いでしょう。
なのに、この映画の中で一番人間的で共感できる人物に描かれているのはネーベだったり、ルール占領からミュンヘン一揆失敗までの経緯を思い起こさせる演説をしっかり入れたり、主人公が真実を求めて聞くラジオがスターリン体制下のモスクワ放送だったりするわけですよ。
ネーベは、相当ヤバいオッサンだと思うのですが、この映画の中では「何となく危ないものを感じながらも、大それた行動には出られないインテリ層」の代表のように見えます。
そして、ルール占領は明らかにドイツが被害者になった事案でしょう。
喩えて言うなら、喧嘩して負けたら、勝った側に二十年分の給料相当の現物&現生の慰謝料要求され、しょうがないから今月分の現物持ってったら、「それじゃ全然足りない。代わりに自慢の娘を貰っていく」と言われて、実際にそれをやられちゃったようなもんです。
こんなもん、ドイツはキレるにきまってます。
きわめて民主的かつ意思決定機構がぐじゃぐじゃだったドイツ(ワイマール共和国)は、対抗策としてストを選ぶわけですが、これが完全に『肉を切らせて骨まで断たれる』結果になり、ハイパーインフレ地獄に突入。ミュンヘン一揆は、こうして起こります。
そして、主人公とその友人が聞いているモスクワ放送。友人は赤色戦線のシンパだったりするわけですが、その赤色戦線の挨拶は「ハイル・モスクワ」だったという話。ソ連は共産主義の理想なんか全く追求せず、ヒトラーよりもはるかに化け物じみた独裁者が政敵を次々に粛清し、反抗する人々を片っ端から収容所に放り込んでいたのにです。マヤコフスキーが賞賛を浴びていた時代ならともかく、当時のソ連には、自由に憧れるゲオルクが求めるものなんて何もなかったでしょう。
国が外国語放送をやる動機なんてプロパガンダしかありえないのに、ナイーブに100%信じていそうなあの雰囲気も気になります。
この映画を見ていると、「誰かが突出して悪逆非道・無知蒙昧で、誰かが突出して高潔・慧眼だったわけではなく、皆、少ない選択肢と乏しい情報の中で、自分にとって最も有利だと思われる道を選んだ結果じゃないか」そんなふうに思えてくるんですよね。それを認めず、ナチスだけに全ての罪を押し付けていると、また同じ間違いをやらかすんじゃないかと。
もし、こういう気分にさせることが狙いだったとしたら、この映画は結構成功していると思います。
と同時に、もしそうだとしたら、それをストレートに口にできないドイツ社会の異常さを感じますね。
だって、亀山郁夫氏が、スターリン時代のクリエーターの姿勢を喩えた”二枚舌”と同じですよ。
独、仏、墺は、ナチスの犯罪を否定もしくは矮小化すると刑事罰というお国柄で、ナチス・ドイツの再評価自体がタブー視されているようです。
ヒトラー礼賛やホロコースト否認はもちろんご法度。最近、オーストリアでヒトラーのコスプレした男が逮捕されたとかいうお笑いニュースが流れましたが、少し前に流れた「ドイツで、『我が闘争』の発禁がナチス批判の説明付きを条件にしてようやく解けた」という報道と合わせて見ると、あんまり笑ってる場合でもないような気がします。
そして、ZDF辺りの報道見てると、言論弾圧はナチスネタだけじゃないように見えるのがさらに怖い。
以前は独裁者の下で、何とか自分の言いたいことを世に伝えるために使われた二枚舌。
今や、マスコミや圧力団体を相手に使われる時代になったのかもしれません。
【放映予定】
スターチャンネル
http://www.star-ch.jp/channel/detail.php?movie_id=25447