映画『グランド・ブダペスト・ホテル』ネタバレあり感想

パッと見は、反ナチス、反全体主義、反戦、反レイシズム、反『移民叩き』を、メルヘンチックな映像と”お笑い”でラッピングした話――――という感じなのですが、実は『承認欲求こじらせた苦しみ』を結構生々しく描いてる映画(だと勝手に解釈した(笑))。

あらすじはと言いますと、架空の国スブロフカの高級ホテル(時代的は第二次世界大戦直前)で、セレブ老婦人の夜のお相手まで務める超売れっ子コンシェルジュ、グスタヴ(レイフ・ファインズ)が、急死した伯爵夫人の遺言で高価な絵を受け取ることになったものの、「どうせマダムの息子に妨害される」と踏んで、ロビーボーイのゼロ・ムスタファ(トニー・レヴォロリ)と共謀して絵を持ち逃げ。遺産を独り占めを狙うマダムの息子は、執事に嘘の証言をさせてグスタヴを殺人犯に仕立て上げ、ついでに執事とその姉、さらにはマズイことバラそうとしたお抱え弁護士まで殺害。グスタヴは収監されるも脱獄し、ケーキ屋のコスプレで絵を隠したホテルに帰還。派手なドンパチの末、絵の裏に隠された最後の遺言が発見され、なんとグスタヴがマダムの全財産を引き継ぐことに――――で終わるかと思いきや、程なくズブロフカは他国の占領統治下に置かれ、グスタヴは横暴な検問兵に逆らって銃殺。ゼロが全ての遺産を受け継ぐことになりました――――という話を聞いた作家がこれを本にして、その本を、彼の記念碑を訪れた少女が読んでいるというお話。(ふぅ、めんどくさ…)

「そこでミルクを持たせるなぁー!」とか、「うん。やっぱり日本人のズボンの丈は短いと思われてるのね…」とか、「穴から出てきたエドワード・ノートンさん、えっらい楽しそうなんスけど」とか、「なんか、『ヒトラーの贋札』に出てた人(カール・マルコヴィクス)が、囚人になってる!」とか、いろいろ笑どころはありつつも、ホテルを兵舎にした軍がまんまナチスだったり、最後にどーんと「シュテファン・ツヴァイクの作品にインスパイアされて」と出たりで、いかにもユダヤ人ロビイストが喜びそうな話。
ではあるのですが、脱獄したグスタヴが、お気に入りの香水を忘れてきたゼロにキレたときのこのセリフを聞くと、どうもそれだけの話ではない模様↓
「なぜお前は、自分が本来あるべき場所を去り、わざわざとんでもない距離を旅して、”お前が居なくても何の問題もなく回る、上品で洗練された社会”の中の、極貧移民になりに来たのか」

テキトーすぎる訳なので、一応原文も…
「What on God’s earth possessed you to leave the homeland where you obviously belong and travel unspeakable distances to become a penniless immigrant in a refined, highly-cultivated society that, quite frankly, could’ve gotten along very well without you?」

このグスタヴという人、結構複雑な人です。
時々飛び出す下品な言葉遣い、伯爵夫人からのお布施を平気で使いこむ神経、義足の靴磨きの少年に対して見せる心遣い、「あなたも、ロビーボーイから始めるしかなかった人なんじゃ…」とゼロに言われた時の反応、アガサ(←ゼロの妻となる白人女性)の性的虐待被害について想像が及ぶとところ、等々を見れば、「相当ひどい少年時代送ったのね…」と想像できます。
で、エンディングのシュテファン・ツヴァイク×(バラライカ+コサックダンス)を見れば、つい、「ユダヤ人×ロシア=ポグロムの生き残り?」とかいう連想が働いてしまうわけですが、上のセリフを聞くと、どうもそういうわけでもなさそう。
むしろ、生まれた国を”逃げ場のない地獄”だと考え、軽率にも外部からそこに飛び込んできた移民に対して、苛立ちを覚えているようにも見えます。

だとしたら、彼の”古き良きヨーロッパ愛”って何なんでしょう?
それを考えると、結構生々しい怨念的なものを感じてしまったりするわけです。

ぶっちゃけ、国民国家以前、民主主義以前の世界の方が、特権階級の純粋な損得勘定で動いていた分、異民族に対する締め付けも、他国に対する戦争も生ぬるいものだったと思うんです。でも、ヨーロッパが超階級社会であり、下層に属する人々が軽んじられてきたのは、”古き良きヨーロッパ”も同じでしょう。
グスタヴは、生粋の上流階級の人々以上に洗練された人間であろうとし、伯爵夫人よりも伝統的なファッションにこだわり、ホテルを評価されれば簡単に気を良くし、最上流の金持ち金髪老婦人に死ぬほど必要とされることで悦に入っています。これは、単純に『上流社会の文化に対する憧れが高じて信仰心に近いものになった』というだけではなく、『非常に屈折した形で上流社会への復讐を果たしている』というふうにも見えるんですよね。
しかし、そんな彼の行き着く先は、”開明的な人間であること”との心中でした。

ちなみに、後のホテルの宿泊客(もともと中流以上)は、自分にそこそこ自信があるがゆえに、もっと”したたか”です。
当時は、1989年以前の東欧のような状態にあったと思われますが、彼らはその社会の中で、認められることを「考えるのも愚かしい」と切って捨てるか、疲れた自分をきちんと認めて癒そうとするか、完全に独りの世界に閉じこもるか、もしくは新天地を求めて逃亡しています。
極めて健全なやり方です。

リベラルなワイマール共和国が『何も決められない』という弊害によってナチス・ドイツの独裁を生み、その失敗がリベラルなドイツ連邦共和国を生み、その理想と現実のギャップが再び――――という歴史を見れば、『行き過ぎれば揺り戻しが来る』のは自明の理。
一番逆風の強いときに、真正面から攻撃をしかける必要はありません。
そんなことをしなくても、この作家は後に記念碑を建てられ、その前には粗末ながらもベンチがあり、若者達が彼のホテルに”泊まりに”来た記念に、キーをぶら下げていくわけです。誰かにとって価値のあるものは、こうやって広がっていくものなんじゃないでしょうか。
(ちなみに、ジュード・ロウのメガネ見て思い出した某トロツキーさんは、メキシコに逃げてもピッケルで頭かち割られたわけで、国外逃亡しても情報発信続けられるとは限りませんけどね)

そして、ここが重要だと思うのですが、それは誰にとっても価値あるものというわけでもないと思うんです。
昨今の難民・移民に関するニュースを見ていて、どうにも気になって仕方ないのは、「あなたの道徳観はこの国では通用せず、あなたのスキルでは最低賃金すら払えないと告げられ、施しと再教育を与えられた難民が、果たして自尊心を維持できるのか」ということです。
大抵の人は、生まれ育ったコミュニティの価値観に合わせて心やスキルを磨き、そのコミュニティにとって必要とされる人間に育っていくものです。それが何の役にも立たない世界に放り込まれるのは、相当つらいことなんじゃないでしょうか。
「『お前に喜捨させてやったんだから、感謝しろ』『労働は神の罰だから、したくない』という連中は平気だろう」と言われるかもしれませんが、彼らだって安泰ではありません。彼らを厚遇すれば、生活苦の中流以下にキレられるのは必然で、今後、受け取るものが減るばかりでなく、下手をすれば命を失う危険すらあります。

本気で人権というものを考えるなら、「可哀そうな人達を受け入れてあげよう」ではなく、『それぞれの人が”自分の存在意義を感じられる場所”を自ら取り戻す戦い』に力を貸すべきでしょう。

――――なんてことを考えさせられた『The Grand Budapest Hotel』でした。
NHK-BSがこの時期に放映した意図は別のところにあるのかもしれませんが(笑)、色々と深読みのできる良い映画だと思います。