映画『悪の法則(The Counselor)』ネタバレあり感想

ムービープラスで放送があったので、今更観てみました”悪の法則(The Counselor)”

なかなか強烈なメッセージを持った作品です。
そのメッセージの内容はといえば、ざっくり言ってこんな感じ…↓
 

  • 日々行っている『選択』の重みに気付いているか?
  • その選択は、身近な世界の倫理、常識、そして、認知バイアスに基づくものではないか?
  • いや、そもそも「まだ猶予がある」と自分に言い聞かせて、選択すら先送りにしているのではないか?
  • 取り返しのつかない状況になってから、何とかその過ちを無かったことにしようと足掻き続けることで、人生の奥深さに触れる機会を逸してはいないか?

 
なかなかグッサリと来る問いかけですね。
が、表面上は結構悪趣味なバイオレンスドラマ。
勿論、必要があってそうしているわけですが、そのおかげで本来届けるべき層(良識派のホワイトカラー)に届かないんじゃないかと要らぬ心配をしてしまいます。
…と思った理由を説明するためにも、まずは、あらすじから――――

あらすじ

美女と結婚決まってウッキウキなバツイチイケメン弁護士(マイケル・ファスベンダー)が、超高額エンゲージリング&今後のリッチライフのために、麻薬組織の取引の片棒担ぐことになったものの、共犯者のライナー(ハビエル・バルデム)の彼女マルキナ(キャメロン・ディアス)がその会話を盗聴して、ブツを横取り。弁護士達は罪を押っ被せられ――――とまあ、ざっくり言えばそんな話。

その押っ被せ方というのがスゴイ。
まず弁護士が担当している容疑者の女に、「息子がスピード違反で捕まった」と電話で知らせます。(マルキナの差し金であることは、映画では語られていませんが)
当然彼女は弁護士に、「息子を助けてくれ」と頼みます。大して厄介な話でもないので、弁護士は彼女の息子のために罰金を支払い、保釈の手続きを取る。
で、その息子というのが運び屋バイカーで、ブツが詰まったトラックのキー(と、多分そのトラックの場所とナンバーを示したメモ)を運ぶことになるわけです。(マルキナの手下が初め、運び屋の男を特定できていなかったところを見ると、「100%彼が担当する」という保証はなかった模様)
マルキナの手下は、バイクの高さを販売店で確かめ、彼が通る道路にワイヤーを引き、ついでにライトも取り付け、彼が通りかかった瞬間にライトを照らして顔を上げさせ、ワイヤーで首をちょん切って殺害。そして彼が運んでいたものを横取りします。
結果、彼女はブツを手に入れ、運び屋と繋がりのあった弁護士とそのお仲間に麻薬組織の疑いが向くというわけです。

しかし、マルキナの手下は殺され、ブツはさらにまた誰かに奪われます。
奪った誰かを察したマルキナは電話で、「トラックの行先は知ってる」と脅しをかけるわけですが、状況から見てこれはライナー達が一緒に働いていた麻薬組織ではないでしょう。
彼らに真犯人を誤認させるためにいろいろと工作をしたのに、わざわざ自分から正体をバラす筈がないし、ライナーを襲った麻薬組織は、ライナーの額をぶち抜いた男を「何てことをするんだ!」と怒鳴りつけています。つまり、麻薬組織は真犯人もブツの場所も特定できていない。
消去法で行けば、もともとマルキナに協力していて、裏切った”個人”――――まあ、普通に考えればウェストリー(ブラッド・ピット)ですよね。(あの脇の甘い立ち回りを見ていると、「違うんじゃないの?」という気もしてきますが…)

そして、マルキナは、女スパイを使ってウェストリーのネット取引の認証情報を得て、彼を殺し、財産を横取り。麻薬組織が真相に気付く前に香港に高跳び――――というお話でした。

いろいろ考えさせられる良作だけど、ちょっと説明過剰

↑というのが、この映画を見た正直な感想。

撒き散らした伏線の回収は万全だし、
主人公の弁護士(マイケル・ファスベンダー)のちょっとヤな感じと、ローラ(ペネロペ・クルス)の思考停止系良識派っぷりも、必要な仕事をちゃんとしてる感じだし、
カトリック神父の使えなさも「あるある」な感じで説得力あったし、
そして何より、マルキナ(キャメロン・ディアス)のキャラ立ちが異常(笑)
っていう数々の利点と、耳が痛くなるようなメッセージは、確かに一見の価値があり。

でも、いくらなんでも説明過剰。そして、言葉だけでオチを付けるのはどうなのよという…(笑)
最後のエルナンデス弁護士の演説(?)、あれ聞いて、なんかトルストイの『復活』のラスト思い出しましたよ。(あれは聖書読んで、「そうだったのか!」って納得しちゃうというオチ)
何がスゴイって、ラスト近く、ほんの数分の中でこれ+αを語るところ(※訳は適用に勝手につけたものですので、あんまり信用しないでください)↓

Actions create consequences which produce new worlds and they’re all different.
行動が結果を生み、結果は新しい世界を創り出す。それらはみんな、互いに異なるものだ。
Where the bodies are buried in the desert, that is a certain world.
砂漠に死体が埋められている――――それも確かな一つの世界。
Where the bodies are simply left to be found, that is another.
死体がただ放置されている――――それもまた別の世界だ。
And all these worlds, heretofore unknown to us, they must have always been there.
我々がその存在を知らなかっただけ。全ての世界は、既にそこに在った。

The world in which you seek to undo the mistakes that you made is different from the world where the mistakes were made.
自分が犯した過ちを”無かったこと”にしようと足掻く世界と、その過ちが既に為された世界――――それは全く別のものだ。
You are now at the crossing. And you want to choose, but there is no choosing there. There’s only accepting. The choosing was done a long time ago.
君は今、人生の交差点に居る。そして行くべき道を選びたいと考えている。でも、もう選ぶことはできない。ただ受け入れるしかないんだ。選択は、ずっと以前に為されていたのだから。

When it comes to grief, the normal rules of exchange do not apply, because grief transcends value.
交換のルールは”悲しみ”には適用できない。”悲しみ”というのは、”価値”という観点で語ることが出来ないものだからだ。
A man would give entire nations to lift grief off his heart and yet, you cannot buy anything with grief. Because grief is worthless.
人は、自分の悲しみを消すために国を売ることさえあるが、”悲しみ”で何かを買うことはできない。”悲しみ”には価値がないからだ。

Do you love your wife so much, so completely, that you would exchange places with her upon the wheel?
君は奥さんを愛しているか? すべてのものと引き換えにしてもいいと思うほどに?
And I don’t mean dying, because dying is easy.
言っておくが、君の命のことを言ってるわけじゃない。死はそんなに難しいことじゃない。
Yes! Yes, damn you!
ああそうだ! チクショウ!
Well, that is good to hear.
それを聞けて良かった。

At the understanding that life is not going to take you back.
たがそれは、「人生は取り戻すことが出来ないと理解する」という意味でだ。
You are the world you have created, and when you cease to exist, this world that you have created will also cease to exist.
君という存在は、君が作り上げた世界だ。君が存在することをやめた時、君が創造した世界もまた消える。

But for those with the understanding that they’re living the last days of the world, death acquires a different meaning.
人生最後の日々を生きていると理解した者にとって、死は別の意味を持つ。
The extinction of all reality is a concept no resignation can encompass.
全ての現実の消滅という概念は、”諦め”でさえ容れることが出来ない概念だ。
And then, all the grand designs and all the grand plans will be finally exposed and revealed for what they are.
そして最後に、(神の)大いなる意図と大いなる計画が明らかになり、君は、それがどんなものかを知ることになるだろう。

いやもう、いくらなんでも喋りすぎ!
そこかしこに前振りがあり、似たような内容をいろんな人が繰り返し喋ってるわけですから、もう三行ぐらいでまとめてください!って感じです。
ちなみに、似たような内容ってのは例えばコレ↓

I think to miss something is to hope that it will come back. But it’s not coming back.
何かを懐かしむってことは、それが戻って来るのを願うこと。でも、決して戻って来ることはないわ。

You keep telling yourself it’s not as bad as it appears and then one morning, you realize it’s worse.
まだ目に見えて悪い状態にはなってない――――そう自分に言い聞かせてるうちに、ある朝突然、事態が悪化してることに気付くんだ。

You may think there are things that these people are simply incapable of. There are not.
「そういう連中にだって、(残酷過ぎて)出来ないことはある」と思うかもしれない。でも、そんなものはないんだ。
I don’t know what you should do. But at this point, it’s out of your hands.
どうするつもりか知らないが、もうあんたの手には負えないよ。

Either you think it’s all going to work out or you don’t want to think about it at all.
万事解決できると思ってるの? それとも、何も考えたくないだけ?
Because the third alternative is unacceptable?
三番目の選択肢はないのか?
Yes. The excluded middle.
そう。その中間はないわ。

うーん…改めて書いてみて、もうお腹いっぱい(笑)
こういうのは言葉で言われるより、ガツンと映像で見せられた方が響くと思うんですけどね。
まあでも、肝に銘じておきたい言葉の数々ではあります。

聖職者の”使えなさ”について

それにしても、マルキナが足を運んだ教会の神父の使えなさったらなかったですね(笑)
彼女は自分のやることに罪悪感を感じていたわけではないし、誰かに赦されたいを思ったわけでもないと思いますが、「自分がなぜこうなのか」ってことについては、割と真面目に考えてたんだと思うんですよ。
表面上は、アッタマ悪そうなローラーが「教会に行って告解するのは大事なこと」って言うから、冷やかしで行ってみましたって感じですが、「(外で待っている人達は)待てる筈よ。私は待ったんだから」という言葉を聞けば、どう見てもそれだけじゃない
なのに、信者にならなければ許されないだの、洗礼は受けたのか?だの、学習プログラムを受けてみろだの「いや、そうじゃないだろ!」という…。

「少女時代の貴方は、強要されたことを自ら選んだのだと思い込むことで自分を支えていたのではないか」
「あなたが今行っているそれは、復讐ではないのか」

そういうことをやんわりと伝えるべきだったんじゃないかと思いますが…。
まあ日本の坊さんを見ても、最近の聖職者は、カウンセラーとしての役割を果たせていない人が多いんじゃないかと思います。

真の共存とは何でしょう?

マルキナには、「そうあろうとしてそうである」という部分が多少透けて見えてますが、この映画に出てくるその他大勢の人々はさらに強烈です。他人に対する共感能力が決定的に抜け落ちてる。

終始落ち着いた様子で、バイカーの首を刎ねるための工作をする男、
陽気な口調で喋りながら、遺体の入ったドラム缶の蓋を開けて見せる男、
運転席の血のりを、顔色一つ変えずに洗い流す少女、
仲間が射殺され、自分も足を撃たれたのに、まるで機械のように無駄のない動きでトラックを奪う男――――

“良識ある人達”は、こういう人達を青臭い人権意識で受け入れ、再教育しようとしますが、果たしてそれは正しいのでしょうか?
そもそも彼らの置かれた環境では、”それが生き残るために必要な資質”だったとしたら?
そうでなくても、生まれつき共感能力が欠如していたら?
彼らはお行儀の良い人々を見て、馬鹿にこそすれ、決してその考えに敬意を払うことはないと思います。
それは映画のラスト近く、マルキナが、スパイに使ったアメリカ人女性に放った言葉にも表れています。

「私がアメリカ人の好きなとこ、分かる? あてに出来るところよ」

要は、「メキシコ人はいつ裏切るか分からないけど、アメリカ人は約束を守る」と言ってるわけです。
人権派から見れば、メキシコ人に対する差別発言ですが、それは完全に発想が逆。これは明らかに「アメリカ人は甘ちゃんだ」と、盛大にdisってる発言です。

さて、こういう世界の住人と、お花畑の住人が共存できるでしょうか?
西側諸国のリベラル派は、「思想や社会体制が進化していく方向は一つで、自分たちはその最先端にいる。どんな人でも温かく受け入れ、真摯に話し合えば、皆我々の考えに賛同してくれるはず」と考えているようですが、これはとんでもない思い上がりのような気がして仕方ありません。
倫理観も宗教も、必要があって生み出されたもので、どちらが上とか下とか、そんなもんじゃないでしょう。
『彼らには彼らの、私には私の道理がある』という考えに基づいて、適切な距離で付き合うべきなんじゃないでしょうか?

で、この映画の狙いって?

この作品の持つメッセージから察するに、脚本家はおそらく、中間層以上の『良識派』と呼ばれる人達が、主人公の弁護士になったつもりで観ることを期待しているのでしょう。そのために――――かどうかは知りませんが、主人公が名前で呼ばれることはない。
でも、そういう人達はこの映画を俗悪だとして、最初から観ないような気がします。もし観たとしても、「やっぱ危ないことには手出さずに、真面目に生きるわ」で終わり
そう考えると、成功してるんだか失敗してるんだか、よく分からない作品です。
まあ、こんな長文書いちゃうぐらい印象には残りましたけどね(笑)