映画『スプリット(Split)』ネタバレあり あらすじ&感想

「この映画観て『クる』ものがあった」という人は、おそらく「世間一般の人達って、なんでこうモノを考えず、残酷なんだろう…」的な言葉を胸の内で呟いたことがある方なのではないでしょうか?
この映画は、そういう人達のうち、一部(現実を直視する人達)には力を与え、別の一部(自我肥大型で妄想の中に安住の地を見つける人達)については、危険な道のさらに奥へ追いやる諸刃の剣ではないかと思います。
――――という話は後にして、まずは、ストーリーから。

ストーリー

心臓麻痺で父親が死に、ペド系虐待叔父に引き取られて、順調に周囲と馴染めない女子高生に育ったケイシー(アニャ・テイラー=ジョイ)。彼女は、「あの子だけ呼ばなかったら、SNSでいろいろ言われて傷つくでしょ」的傍迷惑な理由で『お誕生日会』という拷問イベントに呼ばれ、その帰りに、謎のハゲ(ジェームズ・マカヴォイ)にその他二名の女子高生とともに拉致られます。

目覚めたのは、狭い部屋の中。
拉致犯のハゲは、ダッシュボードのゴミも嫌そうにハンカチで拭う潔癖症なのですが、女高生に『踊れ』と訳の分からない要求をするなど、別の意味でも怪しさ満載。しかし潔癖症が災いして、最終兵器『お小水』で撃退されちゃったりもします。結構間抜けなとこもあります。

しかし、勿論それで脱出が叶ったわけではなく、しばらくすると今度は何やらドアの外で言い争う声が聞こえてきます。ドアの隙間からハイヒールを履いた足を確認したケイシーは「あの女の人に助けて貰えるかも!」と期待しますが、ドアの向こうから現れたのはなんと、女装したさっきのハゲ(中身は女性のパトリシア)。
神経質ハゲ(デニス)よりも物腰・口調は優し気ですが、もちろん逃がす気はナシ。
それどころか、「彼は、あなたたちがどうしてここに集められたか分かってるわ。彼は、あなたたちに触れることを許されていない」と、えっらい不気味な台詞を残して去っていきます。

そして”パトリシア”にたしなめられちゃった潔癖症ハゲ(デニス)は、「お前たちは”sacred food”だ」という、これまた超絶恐怖を煽る発言の後、「汚れたトイレを掃除しろ」と実に潔癖症らしい命令をして去っていきます。(これ多分、昔、親に言われたことそのまんまですね…)

次に現れたとき、ハゲが名乗った名前は”ヘドウィグ”。”どう見ても『頭足りない』感じ”にピンと来たケイシーは、「あなた、いくつ?」と訊ねます。答えは「9歳」。
ここで初めて、ケイシーは彼が多重人格者であると悟ります。

ケイシーは、「今がチャンス!」とばかりに、彼を手なずけて脱出を図ろうとしますが、あえなく失敗。
次に力技で天井破って脱出しようとするも失敗。
最後に、”パトリシア”を椅子で殴り倒して逃げようとするも、やはり失敗。
もはや打つ手なし。頼みの綱は、このハゲ(本名ケヴィン)が掛かっているドクター・フレッチャー(ベティ・バックリー)です。

ケヴィンは、DID(解離性同一性障害)でカウンセリングを受けていました。
一応まともに就職し、評判も上々――――なのですが、フレッチャーは、”彼ら”の中でリーダー格だったバリーから、度々カウンセリングを受けたいというメールを受けるようになります。そして、翌日現れた彼はなぜか決まって「大丈夫」と言う。終いには、バリーにとっては大事な筈のデザイン画を、うっかり置いて帰ろうとする。当然、フレッチャーは違和感を覚えます。
チョコレート皿の位置を何度も直す姿にも――――。

こうした強迫神経症的な特徴を持つのは”デニス”です。彼は、母親に叱られないために生まれた『何でも完璧にこなすキャラクター』なのですが、リーダーのバリーに疎まれ、普段は表に出て来られません。
しかし、フレッチャーは、『バリーが他の人格にポジションを乗っ取られたと気付いた”誰か”がメールを送り、その事実に気付かれたくないデニスが「何でもない」という言い訳に来ているのではないか』と考えます。

フレッチャーには、他にも気掛かりなことがありました。
ケヴィンは以前、「17か18ぐらいの女の子二人に、いきなり手を掴まれて、シャツに手を突っ込まされ、強制的に胸を触らせられた」(←周囲に嗾けられた肝試し的なもので、終わったらダッシュで逃げてって笑ってた)と話していました。そしてその後、彼は何日も怒っていた。
フレッチャー当時、この事件をあまり重視していなかったのですが、それが彼に重大な影響を与えたのではないかと思い始めます。(デニスが「これはオレが何とかしなけりゃ」と思ったのか、ヘドウィグが目覚めて”照明(表に出てくる権利)”を自由に取れるようになったのか、コレ、どっちなんでしょうね(笑))
ちなみに、この女の子二人が、ケイシーと一緒に捕まった二人と同一人物なのか、単に似たようなタイプの二人だったのかは不明。

フレッチャーは、”自称バリー”をなだめすかし、ついに自分がデニスであると認めさせます。
そして、デニスはケヴィンを守るために生まれた価値ある存在であること、彼が語る”ビースト(超人的に強い24番目の人格)”という人格は存在しないこと、などを話します。
この時点で彼女は、”ビースト”を『より強い存在を後ろ盾として”作り出す”ことによって、他の人格や他の人々に一目置かせ、また、自分の心の安寧を得ようとしたもの』と解釈しています。宗教を信じる人にとっての神のような存在ですね。

しかしある夜、バリーから大量の「今すぐ来て」メールが入っているのに気付き、これは何か大変なことが起きたと直感して、彼の職場に直行します。
そして、トイレを借りると言って地下に降りたところで、鍵のかかった部屋から明かりが漏れているのを発見。ついに監禁された女子高生を見つけるのですが、すぐにデニスに捕まり、あえなく薬で昏倒させられます。

その夜、フレッチャーが妄想の産物だと思っていた“ビースト”が本当に現れます。
体まで超人的に変化したケヴィンは、フレッチャーを握り潰すようにして殺し、女子高生二人も文字通り供物にします。
しかし、フレッチャーは殺される直前、ある言葉をメモに書き残していました。それは、かつて母親が彼を厳しく折檻するときに決まって使っていたフルネーム。
ケイシーはこの名を叫び、それによって元々の人格=ケヴィンが戻ってきます。彼は、2014年から意識がなく、当然、三人を殺した記憶もありません。

ケヴィンは自分が大変なことをしたと知り、また、”これからもするかもしれない”という恐れから、ショットガンの在処をケイシーに教えて、「殺してくれ」と頼みます。
しかし、ヘドウィグとのやりとりなどから、薄々同類の匂いをかぎ取り、さらにショットガンで叔父を殺しかけた記憶を持つケイシーにそんな真似が出来る筈がありません。すぐにまた他の人格が現れ、追われることに――――

ケイシーはショットガンを持って逃げますが、”ビースト”になった彼はまさに超人的。ショットガンでも撃ち抜けません。
追い詰められ、絶体絶命――――。
と、そこでなぜか突然、”ビースト”が動きを止めます。
彼が見ていたのは、ケイシーの肌に無数に残る虐待の跡でした。

「お前は、他の連中とは違う。お前はpureだ」
彼はそう言い残し、結局、何もせずに去っていきました。

無事助け出されたケイシー。しかし、迎えに来たのは、虐待を繰り返してきた叔父です。
ある意味、全然助かってませんね。迎えが来たことを告げた”全然分かってない感じの(まあ当たり前なんですが)”女性警官を見上げる彼女の目は、本当にグッときます
でも、この経験を経た彼女は、もしかしたら何らかの行動を起こすかもしれませんね。

そしてラストは、事件のニュースが流れている店でのこんな会話で〆。
「15年前、車椅子に乗った似たようなイカレた男が居たわよね」
「Mr. Glass?」
「そう、それよ」
答えたのはブルース・ウィリス(笑)
まさに、to be continued…という感じの終わり方でした。

ちなみに、ケヴィンが「殺してくれ」と言った後、現れた別の人格が妙なことを言います。
千何年とか、インドっぽい地名とか、パトリシアとデニスと少年にやられたとか――――
これが単なる妄想でなければ、次の映画の伏線なのかもしれません。

もう一つちなみに、M・ナイト・シャマラン監督本人が出演してたりするんですが、あれ、笑うとこですか?(笑)

感想

The broken are the more evolved――――この台詞がガツンと来ちゃった人は多分、冒頭に書いたような方々ではないかと…。

実際、生き物というのは極めて省エネに出来ていて、必要に迫られなければものを考えないし、自らの能力開発をすることもありません。これらを実行する人には、あまり一般的でない経験をしてきて、その生き辛さから、”そうせざるを得なかった”人達が多いんじゃないでしょうか。
こういうグループから見て、普通の人達は、ときにひどく残酷です。物を知らず、ときに少々アホなことをやらかすだけの普通の女子高生を、デニスやビーストが”impure”と言ったのも理解できます。

しかし、「自分は虐げられたが故に純化され、強大で特別な存在になったんだ。だから、世のクズどもはオレに浄化されるべき」となると、これはもう完全に○チガイです。
この映画は、ケヴィンに、それを妄想の中だけでなく、リアルな世界で、それも”本物の超人的な力”を以てさせてしまったことが極めて危険だと思うわけです。
別に自我肥大こじらせた妄想世界の住人が、リアルで犯罪を犯すとはこれっぽっちも思っていませんが、『自分は特別な存在』妄想がより強化されて、現世に戻ってこられなくなる可能性が増すんじゃないかと。

一方、ケーシーです。
彼女が持つ、他人の力量や次に起こす行動を読む能力や、『おしっこしちゃえ』といった咄嗟の防御能力は、間違いなく虐待によって培われたものでしょう。逆に言えば、痛みを感じ、それを何とかしようと必死になることなくしては、人は新たな能力を身に着けることはない、ということです。痛みを知らない人々は、パトリシアやビーストの言葉を借りれば「asleep」。
まさに、「Only through pain can you achieve your greatness」ですね。
痛みによってある一方向にだけ育ち過ぎた感覚は、日常生活に苦しさももたらすけれど、上手く使えば強みにもなります。

「自分は過去に○○だったから、××なんだ」と感じている人は、その”○○”によって自分が得た何かについて考えをめぐらすと、少しは心が軽くなったりする……というか、「まあ納得できる」という気分になるんじゃないでしょうか。
そういう意味でこの映画は、世界の一定数の人達の救いになる映画だと思います。