“Right now, there’s sorrow, pain. Don’t kill it and with it, the joy you felt.”
この映画を見て、印象に残った台詞は何かと訊かれたら、大抵の人がこのエリオ父の言葉を挙げるのではないでしょうか。
手痛い失恋とか、どうしても失いたくない何かを失くした経験のある人なら、まず間違いなくグッと来る言葉です。急に当時の痛みをリアルに思い出し、かつ、なんとなく救われた気分になる。「今まさにどん底にいる」という人にとってもそうでしょう。
ただ、
“We rip out so much of ourselves to be cured of things faster, that we go bankrupt by the age of 30.(私たちは、できるだけ早く癒されようとして、自分自身からあまりにも多くのものを剥ぎ取ってしまうことがある。でも、そんなことをすれば、三十になるまでには全てを失い、人として破綻してしまう)”
こうなってくると、もうちょっと何というか、陰鬱で深刻な”何か”を感じます。
どうもこの手(?)の映画というのは、”普遍的な”とか”誰もが共感できる”的文句で宣伝されがちなのですが(まあマジョリティに受け入れられないと興行的にヤバいですからね)、”マイノリティーが故の”という部分の苦しみを脇に押しやるのはどうか―――つい、そんなことを考えてしまうぐらい、これは結構ヘビーな映画でした。
エリオの父とオリヴァーの挫折の物語
この話は、三行で書いてしまうと、
これまで『擬態』して生きてきたオリヴァーが、『こうであったかもしれないもう一人の自分』に出会い、その自分と完璧な一体感を味わって至福の時を過ごし、でも、最終的にはその世界に留まることが出来ずに去っていく話
です(三行じゃねぇじゃん(笑))。
パンフは読まない主義(笑)なので監督の意図は分からないのですが、観客として見る限り、このオリヴァーという人は、エリオにハマる前から、基本的にはずっと同性愛者だったように思います。
ダビデの星を今でも付け続けていることから、宗教的な価値観が習慣に染み込んでいるような家庭で育ったのでしょう。自分の性的指向に気づいていても「カミングアウトなど想像もできない」という少年時代だったんじゃないかと思います。
多分、古代ギリシャにハマった理由もこの辺にあったんじゃないかと―――。(”People who read are kind of secretive(本を読む人って、ちょっと自分を隠してるところがある)”というマルシアの台詞がありましたが、本好きというのは、身の回りの現実に共感できるものがあまりにも少ないから本や、それを通して得られる”今ここでない”時代、場所の思想に逃げ、結果、そういうふうに見えるのだと思います。エリオが、沢山の本を読んできたというお気に入りの場所にオリヴァーを連れて行った、ということにも、結構象徴的な意味があるんじゃないでしょうか)
そんな家庭で性的マイノリティーが『自信満々』なキャラに育つとしたら、「とりあえず周囲の期待には200パーセント応えとけ。そうすりゃ”外面”しか見ない奴らはとやかく言わない」で、うっかり大成功を収めてしまった―――というパターンぐらいでしょう。
このまま上手くやれる、大丈夫だと思っていたところに、降って湧いたように現れたのがエリオです。
さる方面からはNGを食らいそうですが、初めはつまみ食いぐらいの軽い気持ちしかなかったんじゃないかと思うんですよね。
実際、この人、軽いお遊びはそこそこしてた人だと思います。『相手の体に触れて反応を見る』、というのは、「このまま進んでも引かれないか?」を見るために割とよく使う手ですし、その後の言動も、はっきり言わずに「こうすれば気があると気付く」というポイントを嫌味なほど押さえています。
エリオが果物で再現していたあれは、ソドムとゴモラ的に(?)心理的ハードル高くて実際どこまでの経験値があったのか知りませんが、少なくとも脳内シミュレーションは完璧だった筈です。明らかに”そういう意味”では素人さんじゃありません。
でも、エリオがあまりにも純朴な素人さん(笑)だっただけに、オリヴァーの方もだんだんと困ったことになってきます。
オリヴァーの言う”I wanna be good”とエリオ父の言う”good”のずれ
オリヴァーがエリオに惹かれた理由は想像がつきます。悩めるオリヴァー兄ちゃん(笑)がハイデガーなんて持ち出すんでそれっぽい表現を使えば、『本来性』(従来の宗教的意味ではなく)の人だったからでしょう。
『構われなくて面白くない!』と態度で示すことも、告白も、不安ダダ洩れで必死に話すことも、ましてや泣くことなんて、絶対に自分にはできなかった―――でも、エリオは平気で、その自分がやれなかったことをやってくるわけです(まあ、本人的にはめちゃめちゃ悩んだ末だったり、バレてないと思ってたりするわけですが…)。
オリヴァーという人は、”怖くてできない”ことを、”やらないだけだ”と思い続けてきた節がありますが、エリオに踏み込んでこられた途端にきょどってる辺りで、その辺の化けの皮も剥がれているわけですよね。(余裕ぶって、“You really that afraid of what I think?(俺が何を考えてるのか、そんなに不安?)”とか言っといて、いきなり距離詰められたら、ものすごく動揺してたのには笑いました。でも、告白聞かなかったことにした直後に、あの言い草はない(笑))
俺にも君のお父さんにも分からないことが、君なら分かるんじゃないかみたいな話を振っておきながら、まともに何か答える前にプールに沈んじゃうとか、あの辺りでもう剥がれまくっていたと言えばそうなんですが…(笑)
とりあえずエリオに何となく本気見せられ始めてからのオリヴァーの状態といえば、長年かかって俺が積み上げてきたものって何よ?ってな感じだっだんじゃないかと思います。多分。
エリオ自身は、自分が上手くコントロールできないことをみっともないと思っているわけですが、オリヴァーにとっては『こうであったかもしれないもう一人の自分』です。いざ認めてしまえば、懐かしくて、とても眩しいものです。
エリオとはしゃいでいるときのオリヴァーは、もう完全に少年返りしちゃってるわけですが、そういう存在と完全な一体感を味わえた瞬間にああなってしまうのは理解できます。バスの中で肩くっつけて笑ってるところなんてもう、見てるこっちが幸せな気分になります。
ラスト近くで、“I think he was better than me”、“I’m sure he’d say the same thing about you”というエリオと父の会話がありましたが、エリオの方は父の言葉の本当の意味を分かっていないような気がします。
そして、オリヴァーは、分かっていても最終的にはそちらに踏み出すことが出来ない。幼年時代からの刷り込み(+承認欲求+社会圧力)というのは、どんなに頭が回る人にとっても越えられない壁になってしまうということでしょうか。
そして、結末ですが―――まあ、この手の話ではお決まりのラストです。
”夏休み”が終わると、オリヴァーはお得意のスカした”Later(後で)”すら言えずに去っていき、そしてその三年後、婚約報告の電話がかかってきます。
あの家に来た当初は、”Is there a bank in town? I’d love to start an account(この街に銀行はないんですか?ぜひとも口座を開設したいんですが)”なんて冗談を言っていても、まあこうなるわけです。ありがちですね。
ただ、面白かったのは、形として”捨てた”方が、むしろ相手に甘えて縋っているように見えたところでしょう。
君のお父さんには本当に良くして貰ったと話した後で、冗談めかせた軽い口調で“You’re so lucky. My father would have carted me off to a correctional facility.(君は本当にラッキーだ。うちの父親だったら、きっと俺を矯正施設送りにしてたよ)”と言うわけです。凄まじくヘビーなお言葉です。
良い方に解釈すれば、「彼女の方が良くなったから捨てられたんだ」と傷つかずに済むように―――とも取れますが、まあ、はっきり言えば言い訳ですよ。「大抵の人間はそういうふうに育つんだ。だから踏み越えられないものもあるし、世間には許されないことも沢山ある。分かってくれ。あの記憶を意味のないものとして捨ててしまわないでくれ」と縋っているようなもんです。アーミー・ハマーって、ほんと残念なイケメンの役が似合いますね(←そこ?(笑))
自分の中にある痛みを認めて冗談混じりにとはいえ人に話せるようになったのは、オリヴァー的にはまあ進歩と言えなくもないんですが。
『激しく心揺さぶられた美しい記憶』は人生の糧となるか毒となるか
さて、映画では描かれていませんでしたが、この後二人はどうなったのでしょう。
“Stay friends”
”For life”
エリオとマルシアが握手をしたときのこの言葉、同性愛者が本当に言いたいことをぐっと胸の奥に押し込めて『これでやっていく』と覚悟したときに浮かぶ言葉の代表格ではないかと思いますが、オリヴァーにこれは出来ないように思います。
ラスト近くで、“We rip out so much of ourselves to be cured of things faster, that we go bankrupt by the age of 30”というエリオ父の台詞が出てきますが、なんだかこの言葉通りの人生を歩んでしまいそうな気がしますね。エリオ父と同じく、罪滅ぼしのように愛妻家を演じながら。
エリオの方も、あの最後の会話をずるいと取るか、痛ましいと取るか、だからしょうがないと自分を慰めるツールとするか、取り方如何で、結構この先の人生が変わってくるような気がします。
初めて寝た後の、”You wore that shirt the first day you were here. Will you give it to me when you go?(ここに来たとき着てたシャツ、帰るときにくれないかな)”辺りは、一見諦めているように見えていろんな思惑が感じられたわけですが(笑)、三年後の、『都会の大学で結構楽しくやってて、クリスマスだから帰ってきました』的なあの服装見ると、別に待ってたわけじゃないし、まあ、三年間音信不通な時点で予想はしてたと思うんです。(そもそも、オリヴァーと別れて家に帰ってきた時点で、”he was”と過去形で喋ってますしね)
でも、はっきり現実突きつけられるっていうのは、それなりにショックが大きかったと思うんですよね。消化法を誤ると、取り返しの付かない事態になるんじゃないかと―――。
ベルガモで酔って大騒ぎした夜、浮かれたオリヴァーは女性を教会のような建物の前に引っ張って行って踊るのですが、あの時、二人とエリオの間は、がっちりとしたチェーンで隔てられていました。オリヴァーはひょいとそれを越えてこちらに来ますが、エリオの方は行けない。あんな感覚を再び覚えたのだとしたら、ちょっと可哀そうですね。
あの映画の殆どのシーンは、今目の前にある現実の世界にしてはちょっと美しすぎて、まるで遠い過去の記憶を思い出しているような印象を受けます。加えて、エリオ父の言う“friendship”には、なんとなく時空を超えた繋がりというニュアンスがあります。
恋愛関係の終わりというのは、他の人間関係とは違って、断絶の度合いがとても高いものです。変な喩えですが、取り壊されたビルにあったお気に入りの場所みたいなもので、二度と戻ることが出来ない。エリオが、お気に入りの場所だと言ってオリヴァーを案内したあの浅瀬も、『雪が積もっているから』という理由だけでなく、すでに『全く違うもの』になっています。でも、あったことは消えるわけではなく、その記憶と繋がりながら生きることは出来る。(勿論、ブロック宇宙論とか、そういうレベルの話ではなく(笑))
Do you know how happy I am that we slept together?
”I remember everything”が強がりでも祈りでもなく、あの表情と言葉が生きる支えになる―――いつかそんな日が来るといいのですが―――。
余談
苦しみの元の方向性は真逆なのですが、エリオ父の言葉を聞いて、なんとなく森田療法の『最悪の道は残っている』を思い出しました。エリオ父のように縋る光を見つけられなかった人にとっては、こっちの方が有効な処方箋かもしれません。
玉野井幹雄著『神経質にありがとう』より
症状から逃げるのが先に立って、ありのままの自分を観察することができない状況にある人が多いように思います。なぜ、逃げるのが先に立つのかというと(中略)早く症状を治さないと、このままでは自分が破滅してしまうという危機感があるからです。それで、理屈なしに症状のないところに逃げてしまいます。そうしていると自然に世界が狭くなり、しだいに自分が行き詰まってきます。そして逃げれば逃げるほど行き詰まりがひどくなります。(中略)現実には最後に一番嫌な道が一つだけ残ります。それは「治らないままに生きる」道なんです。
もう一つ余談ですが、最後のシーン、暖炉の火を見ているエリオ(ティモシー・シャラメ)の後ろで、ガチャガチャとディナーの準備がされてるんですが、過去が走馬灯のように蘇るタイプの自分内大事件が起こった後にコンビニとか行ったことのある人は、多分「この感じ、すごいワカル…」と思ったんじゃないかと。いや、何となくですけど(笑)
とりあえず、細かい造りの映画のようなので(←上に書いていること以外にも、オリヴァーが家に来た時の”Elio, Oliver”、”Oliver, Elio”というエリオ父の紹介とか、”オリヴァーがエリオの部屋を使う”という設定とか、オリヴァ―のシャツを着るエリオとか、「バッハが兄に捧げた曲だ」とか、なんかもう神経症的に事物がピタリピタリとハマってる印象を受けるんです)みたいなので、もう一回観たらまた山ほどネタが見つかるような気がするんですが、あれをもう一回観る気力はちょっとないです。
適量なら力を貰えますが、用量を間違えるとやられまくる―――そんな若干劇薬ぎみの映画でした。