映画『ホテル ムンバイ』感想(ネタバレあり)

2008年11月26日、インドの金融都市ムンバイで発生した同時多発テロを題材とした映画。
この映画、様々なメッセージが読み取れる作品ですが、中でも強烈なものは「教えには盲目的に従うな。自分の頭で考え、より善き道を選べ」「知ることが恐怖の壁を取り払い、団結が奇跡を生む」でしょう。
ただ、後者については相手を見ずに無批判に信じると大変なことになりそうな…。

舞台とあらすじ

この映画の舞台は、超高級ホテル『タージ マハール パレス ホテル』です。どのくらい高級かというと、温度計突っ込んでお湯の温度を測り、「温い。48度にしろ」とか言ってしまうレベル。赤ちゃんの性別に合わせておくるみの色も変え、男女どちらか分からないとなると両方の色を用意する徹底ぶりです。
従業員に「guest is God(お客様は神様)」とかなんとか唱和させてる辺りは、日本企業を彷彿とさせます。(一神教徒の従業員がいたら、大変なことになるんじゃ…という気もしますが)

そんなホテルが、テロリスト達の標的の一つとなります。
フルオートの銃を持ち、一部屋一部屋ドアを叩いて客を始末していく犯人グループに対し、インド政府はまともに対応できません。特殊部隊はデリーにいて、到着まであと数時間。
そんな絶望的な状況の下、ホテルの従業員と地元警察が決死の覚悟で客を救い出す話―――とまああらすじはこれだけ。…なんですが、考えさせられるポイントてんこ盛りの作品です。

教えには盲目的に従うな。自分の頭で考えろ

主人公アルジュン(デヴ・パテル)は、ホテルの給仕係です。シク教徒でターバン(パグリ)を巻いた、日本人にはお馴染みの『インド人』。
出がけに、うっかり靴は落としても、パグリについては寸分の好きもない程完璧に仕上げる信心深い人物です。

それほど信心深い彼が、パグリを外そうとする、または実際に外すシーンが出てきます。
一度目は、イギリス人女性から「髭とターバンが怖い」というクレームを受けたとき。それを理由に下がっているよう言われた彼はまずその女性に、自分はどういう人間で、パグリとはどういう意味を持つのかを説明した上で、「あなたを安心させるためなら私はこれを外します。それをお望みですか?」と訊ねます。
女性は「No」と答え、そのときはパグリを外すことはありませんでした。
が、その後、瀕死の女性から溢れ出る血を見た彼はパグリ外し、それをドロドロの血に押し当てます。子供の頃から、一度も着けずに外に出たことがないというパグリをです。

戒律を破った彼は不信心者なのでしょうか?
日本人的感覚では、間違いなく「No」でしょう。

彼は徹底的に他人を尊厳ある存在とみなし、一人でも多くの人を救うことに全力を尽くします。シク教というものが元々、「神聖なるものが全ての人の中に存在し、いずれは神と合一する」という考え方を採っている所為もあるかもしれませんが、少なくとも彼はそれを自分の頭で消化し、その結果、戒律を破ってでもこの女性を救うことこそが善だと判断したのです。

では、襲撃犯たちの目にこの行為はどう映るでしょうか。
彼らにとっては、そもそも異教を信じてるあたりでもうダメなわけですが、もし同じイスラム教の信者だったとしても『堕落した者』と糾弾するでしょう。
ちなみにイムランだけは少し微妙なところに立っていて、二度、アルジュンに近い行動を取ります。が、これをよくあることだと考えるのは危険な気がします。この辺りについては後述します。

敬虔な信者による攻撃に悪人が立ち向かうという皮肉な構図

この映画で強烈な存在感を放っているのが、ロシア人のワシリー(ジェイソン・アイザックス)。日本人名の英語表記も姓→名の順にしようと叫ばれている昨今、ロシアっぽく「ヴァシーリー・ガルジェツキー(Василий Гордецкий)」さんとお呼びしたいところですが、字幕がワシリーさんになっていたので、ワシリーさんです(笑)

彼は、ソビエト特殊部隊の元将校で実業家(NVキャピタルの社長・共同設立者)。ホテルでスタッフに非常に横柄な態度を取りながら、お上品な人々にも敵意を持ち、一方では女性を勇気づけ、他人のために自分を犠牲にすることも厭わない(非常に分かり難くはありますが)という非常に複雑な人物です。

襲撃犯達が現場に向かう途中、イヤホンから「見回してみろ。全部我々から騙し取ったものだ」という声(←「あんたらがガンジーの時代、壮絶な喧嘩やって、印パ分離したんじゃん」と若干突っ込みたくなりましたが…)が聞こえてきましたが、多分、ワシリーはまさにこれをやった人物。ただし、インド人に対してではなく、ソ連邦の民衆に対しでです。

さて、ここでいきなりですが、プーチンの話です。
最近は支持率にも陰りが出てきた彼ですが、これまで非常に高い支持率を誇ってきました。理由はと考えると、やはり「オリガルヒ達から国の富を奪い返した」ということが大きいように思います。石油、天然ガスによって国が潤うようになったのも、ある意味このおかげ。
ではなぜ多くの人々が奪い『返した』と考えているのかというのと、これは、バウチャー方式の民営化で騙されたという意識があるからでしょう。

バウチャーといっても、ロシアに個人旅行に行く人が「ああ、アレね」と思うアレではありません。転換社債のことです。
ソ連崩壊後、国の資産が査定され、一人当たりの金額に見合うバウチャーが配布されました。しかし、その価値も使い方も知らなかった(というより、価値を疑っていた?)人々は、安値で転売したり、怪しげなバウチャー基金に預けてしまい、それを上手く利用した一部の人々が富を独占するようになりました。
後にプーチンは、やや超法規的なやり方で彼らを逮捕したり、逮捕しようとして国外逃亡されたりしています。西側諸国はこれを人権問題として糾弾しましたが、カラー革命のように民衆が乗ってこなかったのは、そういう事情があってのことだと思います。

で、ワシリーさんです。
彼もおそらくは国の富を山分けした業突く張りの一人です。だた、苦労して成り上がった所為か、良い意味でも悪い意味でもちょっと歪んでいます。

事件が起きる直前、彼はホテルのレストランでコールガールを頼む電話をしています。最初は「Я возьму то(それにする).она сексуальная(彼女はセクシーだ). и…также…высокую(それと、背の高いのも)」と思いっ切りロシア語で喋っているのですが、デヴィッド(アーミー・ハマー)ザーラ(ナザニン・ボニアディ)という、いかにも恵まれた風情のカップルに気付くとすぐ、「The tall one. She has big xxxx(全然大したことないけど一応伏せ字) or small xxxx?」と英語に切り替えます。しかも、下品であからさまな言葉付で(笑)

彼は、手を全く汚さず、生まれたときから恵まれ、それを当たり前に感じている人々に敵意に近い感情を持っているように見えます。
そして、現在の自分が持つ富に見合う扱いを執拗なまでに要求し、自分と同じように成り上がらなかった人々を軽蔑してもいます。逃げ込んだチャンバー・ラウンジでいきなり従業員に高級コニャックをオーダーするあたりは、さすがとしか言いようがありません(笑)

しかし、そんな彼が危機の中にあって仰天の行動を取ります。
ザーラを勇気づけ、脱出を助けようとしたばかりか、犯人グループに捕まると今度は「最初に殺すのは俺にしろ」と言わんばかりの行動を取ります。

彼はアフガニスタン紛争に参加した元特殊部隊将校です。特殊部隊というと、システマの猛者的マッチョばかりを連想しますが、情報戦もできない脳筋が務まるようなところではありません。そして、ソ連のアフガニスタン侵攻は、親ソ派政権を支援するために行ったもので、相手はイスラム原理主義ゲリラです。
彼が、「あなたがたが不信心な者と見える時は、首を打ち切れ。かれらの多くを殺すまで、縄をしっかりかけなさい。その後は戦いが終るまで情けを施して放すか、または身代金を取るなりせよ(コーラン第47章4節)」という言葉を知らない筈がない。
何人かの欧米人が床に転がされているのを見て、「彼らの多く(とくにVIP)が身代金を取るために利用され、誰かが見せしめのために首を落とされる」ということは、瞬時に予想がついたでしょう。

彼は非常に挑発的な言動を繰り返し、肋骨を折られます。状況が変わり、犯人グループが人質を皆殺しにしようとしたときには足に噛みついて抵抗します。
これを見ると、彼が軍に入ったのは単に成り上がる手段ではなく、人々を守りたいという意外に純粋な動機があったのではないかという気もしてきます。
しかし仮にそうだったとして、その気持ちがアフガニスタン紛争で満たされることはありませんでした。

この戦い、ぶっちゃけ新生ロシア国民の評価は低いようです(最近、またちょっと変わって来たようですが)。戦費が嵩んだ上に西側諸国から袋叩きに遭い、これがソ連崩壊に繋がったと言われているからでしょう。ソ連の末期にはもう反省の弁が手ていたという話もあります。アメリカは、グルジア問題でサーカシビリの梯子をあっさり外して見せましたが、ソ連はこれに失敗したんですね。
とにかく、多くの人からは無意味な戦いだったと思われている。思われているだけならまだしも、彼自身の知識と判断力でも同じ答えだったとなれば―――そして彼が結構純粋に人々を守りたくて軍人になったのだとすれば、これは結構きついと思います。

彼を見ていると、草木国土悉皆成仏ではありませんが、「誰の心にも、なんとなく誰かの役に立ちたいという欲求はあるのかも」と思えてきます。
そういう気持ちは、教えに従って盲目的に行動する”信心深さ”より、ときに神々しい何かを生み出すのかもしれません。

イスラム教徒はなぜ多くのテロを起こすのか

ぶっちゃけてしまえば、コーランにそう書いてあるからだと思います。
コーランを初めて読んだときの、何ともいえないうんざり感(あくまで日本人の感性で)は今でも忘れられません。
まず、「あれをしろ、これはするな」と頭ごなしの命令が脅し付きで延々と続きます。そして極め付けが9章(改悛の章)です。別名、剣の章とも呼ばれているようですが、その内容はこんなもの↓
「聖月が過ぎたならば、多神教徒を見付け次第殺し、またはこれを捕虜にし、拘禁し、また凡ての計略(を準備して)これを待ち伏せよ。だがかれらが梅悟して、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をするならば、かれらのために道を開け。本当にアッラーは寛容にして慈悲深い方であられる」

もう、日本人の感性からすると、「これが宗教?」「これが寛容?」という感じですよね。
でも民族同士の諍いが絶えない荒野を生き抜いてきた宗教というのは、こういうものなのかもしれません。
どちらが良いとか悪いとか、そういう問題ではなく、とにかく思考の骨組みが違うんだと思います。
恐ろしいのは、多くの西洋型民主主義国家の人々が、どうもそれを意識しているようには見えないことです。

この映画を見ていて最も危険だと感じたのは、犯人グループのイムランが、リーダーの指示に抵抗する姿を見せたことです。
一度目は、自分が撃った女性のブラに手を突っ込んで、身元を示すものを探せと言われれたとき。
二度目は、アッラーに祈りを捧げるザーラを撃てと命じられたときです。

コーランの世界では、右手の所有するもの(敵から奪った女性)は好きにしても良いことになっています。女性が異教徒と結婚してはならないという文言はコーランでは見かけなかった気がしますが、男性に対して禁じていること、そもそもコーランがどう見ても男性に向けて書かれていることから見ても、まあ普通に考えてダメでしょう(後にザーラはイスラム教の祈りの言葉を唱えて見せますが、もし彼女の親がイスラム教徒だったとしたら、それはそれは大変だったと思います)。
彼に対する指示は、欧米ナイズされた私達の感覚からするとありえない話ですが、イスラムの教え的にはあんまり間違ってない。(デヴィッドが、ザーラが妻であることを隠していた点を考えると、微妙にアウトかもしれませんが…)
にもかかわらず、イムランは彼自身の判断で、これに従いません

アルジュンが、話すことで髭とターバンを怖がるイギリス人女性との壁を取り払ったこと、
犯人グループが”What is your name?”という英語すら聞いたことのない無学な少年達であったこと、
そして、イムランがしきりに家族に金が送られたかどうかを気にしていたこと―――
こうしたことを考え合わせると、この映画は「話すこと」「知ること」「経済的に満たされること」によって大抵の問題は解決できると言っているように見えます
でも本当にそうでしょうか?

アルジュンはシク教徒です。シク教は、異教への攻撃が義務付けられている宗教とは根本的に違います。

では、イスラム教徒であるイムランとその家族はどうでしょう。
イムランはホテルから家族に電話をかけるのですが、ここで驚くのは、彼がジハードに向けて訓練を受けていることを家族が知っていることです。彼らはイムランを一族の誇りだと言い、そしておそらくは相当貧しいにも関わらず、一金のことなど一切言いません
多くの日本人はこれを見て、「イムランは実は孝行息子」「こんな親が居るんだ。信じられない…」となるでしょうが、コーラン的観点では、イムランの方が堕落しているように見えるのです。ジハードとは神に求められた義務であり、金のために行うものではないからです。
啓典の民の必読書旧約聖書『創世記』には、イサクの燔祭というトンデモ話(神がそうしろと言うなら、息子さえ生贄に捧げようとする)が載っていますが、こうした盲目的に神に服従する態度は、コーランに非常に色濃く表れています。
コーランに触れる余裕やインフラがあるほど、テロリストになってしまうという可能性もあるということです。

実際、EU諸国のニュースを見ていると、イスラム国の戦士やその妻となった人々、国内でテロを起こしたイスラム過激派は必ずしも無学な人達ばかりではないようです。先進国で教育を受けた人々も相当数いて、自国の国籍を持つ人々をどう扱うかという話を何度か見かけました。
必ずしも「無学であるがゆえに原理主義にハマる」「金に困っているからテロリストのスカウトに応じる」とはいえないということです。

かつてイスラム圏は科学技術や文化の先進地域でした。アル=カーミル、サラーフ=アッディーン(サラディン)等々、現代の西側的感覚で、当時のヨーロッパのお歴々よりずっと親近感を覚える人達もいます。
が、コーランが明確に暴力的なジハード(穏健派のイスラム教徒の方々がよく口にされる、いわゆる『大ジハード』ではなく)を推奨しているのも事実です。コーランが容易に目に触れる時代になれば、エリートの中にも無学な者の中にもジハードを本気で実践しようとする者が相当数現れるということでしょう。残念ながら。
コーランを妄信する人々が増えれば、現在のような女性の権利が守られなくなる可能性も高い。
イスラム教徒を寛容に受け入れようとする先進国の国民は、その辺りをきちんと意識しているのでしょうか。

何も、「心の中は問わない」「行動として表れて初めて罪に問える」という現代の法律の原則を曲げろと言っているわけではありません。思想信条問わず、そもそもあまりにも生きてきた環境や習慣の違う多くの移民受け入れを認めない方がお互いの為ではないか、認めてしまえばかえって多様性が維持できなくなるのではないか、そして、かつて彼らが住む地域を引っ掻き回した列強が、彼らが彼ら自身の倫理に従って生きられる国を作るのに協力すべきではないかという話です。

マスコミにとってテロ事件はショーなのか

これが嘘だったら各方面から確実に文句が来ると思うので多分本当なのでしょうが、信じられなかったのが、ホテルの中の人との携帯通話をテレビでそのまま流したこと。
おかげで犯人は、大規模な脱出が行われようとしていることを知り、多くの人が殺される結果になりました。
「いや、さすがに先進国でこれやったら袋叩きに遭うでしょう」と思うのですが、有事の際にはちょっと危ない気がします。

証拠に基づく批判を「誹謗中傷だ」と黙らせるのは間違い。あらゆる表現は、「これはフィクションです。実在の人物団体とは一切関係がありません」と書いておけば基本的にオッケー。でも、命に係わる利敵行為はさすがに拙い。
現代ではYoutubeやSNSの動画がマスコミ以上の影響力を持ちますから、個人レベルでも注意する必要がありそうですね。