【ネタバレあり感想】映画「青くて痛くて脆い」

※二行目から既にネタバレとなっております。未鑑賞の方はくれぐれもご注意ください。

ものすごく今さらですが、アマ○ラ特典で鑑賞。結果、ものすごいもやもや感が───というかこれが刺さるタイプの人って、これ観てさらに迷走したりしない?と無駄な心配までしてしまう始末(←要らぬお世話)

この映画、乱暴に総括してしまうと、「回避性パーソナリティ障○っぽい子が、良くなる前にいったんものすごく悪くなる」的な話なのですが、その「良くなるって何?」って部分が非常に引っかかったわけです。
ます、最大の引っかかりはコレ↓

「なりたい自分になる」って誰得?

一応ストーリーを簡単に書いておきますと、誰とも深く関わらないことをモットーとする大学生、田端楓君(西沢亮)が、講義中に挙手して「全員が一斉に武器を降ろせば戦争は終わると思うんです」とか言っちゃう痛い奴=秋好寿乃さん(杉咲花)に絡まれ、「世界を変える」「なりたい自分になる」を掲げる秘密結社モアイを一緒に立ち上げる羽目になり、「こういうのも悪くない」と思い始めたところに乱入してきたセンパイ(脇坂)にモアイの方向性を変えられた上に秋好をかっ攫われ、「今は亡き(ただし自分の脳内限定)秋好」のためにモアイを潰そうと決意。名簿売りの証拠を掴んでSNSでバラまくも、秋好にはあっさり自分がやったとバレ、さらに動機が嫉妬だったと気づかれ、「気持ち悪」と吐き捨てられて、「友達誰もいなかったから僕を間に合わせに使っただけだろ!」とキレてみたりしましたが、その後「昔のモアイが好きだった」的な秋好のスピーチを聞いて急に後悔し、偶然会った脇坂先輩に「僕がやった」と白状。さらにSNSで自分がバラしたと告白したのに周囲の反応は薄く、消化不良になっていたところに偶然秋好を見かけて、今度はちゃんと傷つこうと覚悟を決めて駆け寄っていく話。

いやー、なんですかね。「脇坂センパイの話、聞いてた?」って思いましたね。
「みんなそうやって、誰かを間に合わせに使いながら生きてるんじゃないの? それに間に合わせでも、その時は必要とされたんだから、それで十分だって考えないと」ってアレです。

個人的な感想としては、この映画のもやもや感の原因第一位って、脇坂さん以外のキャラが最後まで徹底的に「自我」に縛られてるところなんですよ。「なりたい自分になる」が、どれだけの人をハマらなくても良い泥沼にはめてきたことか───ってこと考えると、結構罪深い映画だなと。
いや、だって自分が「そういう人間であること」って、社会に何か影響あります?
せいぜい「自己満足」ぐらいでしょう。その自己満足だって、満たされなければ焦るし、満たされたら満たされたで今度は失うのが怖くなる。
正直、田端君タイプが「なりたい自分」になるために「自分を変えよう」とすると碌なことはない気がします。

「暇だね」とバカにされながら寄り添うことの意味

とくに引っかかったのは、ラスト近くのif妄想です。
講師に否定されて凹んでいた秋好に優しく声をかけ、その後、モアイの活動は広がったけれど自分にもちゃんと居場所があり、自分が描いたパラパラ漫画で子供が笑顔になる────。
これ、ものすごく突っ込みたくなりました。「いや、君、今までもっと良いことしてこなかった?」と。

物語の初めの時点で、田端君のモットーはこれでした。

あらゆる自分の行動には、相手を不快にさせてしまう可能性がある
不用意に人に近づきすぎないこと
そして、人の意見を否定しないこと
そうすれば、人を傷つけることもないし、
傷つけてしまった誰かから、自分が傷つけられずに済む
結果的に自分を守ることになる
それが、僕の生きる上でのテーマだ

これぱっと見、万年ハブられっ子が吐く「酸っぱい葡萄」的強言にも見えるんですが、「目立つのが嫌」と言い、自分のダメさを自虐的にちょいちょい曝け出すところを見ると、もしかしたら元は割とハイスペックな人間で、他人からやっかまれる立場にあったのかもしれません。こういう人が良かれと思って何かをすると、逆に酷い攻撃受けることあるんですよね。それがこのモットーを生み出したと考えられなくもない。

でもそうやってひっそり生きているうちに、本当に割とダメ人間になってきたために逆に救えた人がいます。不登校の西山瑞希さんです。

彼女は、田端君が描いたパラパラ漫画を見ても妄想ifの中の子供のように楽しそうに笑ったりしません。むしろ白けた顔で「めっちゃ暇だね」と言い放ちます。
でも、この台詞に「うん」と返して寄り添える田端君が、このときの彼女にとっては一番必要な人でした。

前述のモットーはまとめて読むとアレですが、一行一行見れば───例えば「不用意に人に近づきすぎないこと」「人の意見を否定しないこと」はプラスに働くケースがあります。その真逆を行って彼女を追い詰めたのが例の熱血教師です。(いや、セ○ハ○&モ○ハ○教師か?)
結局彼女は自ら動き出しますが、バンド名は「ザ・やくたたズ」で、一見、教師の「自分を変えていかなきゃ」に従っているようで全然従ってない。なかなかキレイなオチだったと思います。

この映画の残念なところは「自分を変えることを恐れるな」という「ありがち」な結論に落ち着いちゃってるところなんですが、この西山さんの下りは、全く違うアプローチを提示しているように見えます。

ダメな自分を改造してる暇があったら、今の自分に出来ることをする。『あ、自分変わってたわ』は、ただの結果としてやってくる」というヤツです。

田端君タイプが「詰み」状態から抜け出す最良の道は、「お互い学ぶべきことを学び終えて離れた相手」に駆け寄ることじゃないと思うんですよね。西山さんの「その後」を聞いた時に、気づいて欲しかったなと思います。

脇坂さんというロールモデル

脇坂さんというのは、なかなか味わい深いキャラです。
モアイの世俗化・大衆化の立役者なのですが、初対面の相手にいきなり月の話始めるあたり(本題に入るのに勇気が必要だったというのを差し引いても)やっぱりちょっとヘンな人です。
秋好さんが「願ってるだけじゃ無理なの!叶えたいものに辿り着くためには、手段と方法が必要なの!」と言っていましたが、これはどう見たって素の彼女から出てきた言葉とは考え難く、おそらくは脇坂さんの影響でしょう。
妄想力───もとい想像力豊かな彼は、ある時点で「願ってるだけじゃ無理」だと思い知り、人並の社会性を身に付けようと相当頑張ったのだと思います。同じように頑張ろうとしている秋好を見て満足もしていた。
でも、一年足らずで「卒業」されて、それまで漠然と感じていた「悟り」のようなものが、急にはっきりした言葉になったんじゃないかと思います。
「みんなそうやって、誰かを間に合わせに使いながら生きてるんじゃないの? それに間に合わせでも、その時は必要とされたんだから、それで十分だって考えないと」ってアレです。

この人の凄いところは、続けて「あ、いや、僕もそんなふうに考えられるほど人間出来てないけど」と言うところなんですよね。自分の言葉を決して上から目線の説教にはしていない。
この辺の共感力は、いきなり月の魔力を語り出す彼が元々持っていたものではなく、苦労の末に得たものなんだろうと思います。

ではなぜそんな苦労をしようと思えたのかと言えば───まあそこは謎です。もしかしたら「家庭環境にイロイロあって、他人の幸せに貢献しないと死ぬ病気に罹った」のかもしれないし、単純にもともと「『である自分』より『したいこと』重視タイプだった」のかもしれない。
後者のタイプはなかなか強いです。非難や攻撃を受けた場合、『したいこと』の阻害要因だけ何とかすれば良いわけで、防御ポイント(傷つくネタ)が圧倒的に少ないですからね。

田端君タイプで今の自分に納得できていない人は、『自分』のことを考えるのをやめて、その瞬間の行動だけに意識を向けると楽になるんじゃないかと思います。結局、「ちゃんと傷つく」より「傷つく自分というものを忘れちゃう」のが最強なんじゃないでしょうか。

「遠い世界の可哀そうな人」が気になりすぎる人って、身近な人との間に問題抱えてたりしない?

我が家はまあいろいろあって、家にいて気が休まると感じたことはほぼありませんでした。でもそんな家族も、他人と話している時は割と普通だったりするんですよね。四六時中一緒にいて、さらに利害が絡む相手だからこそボロが出る。
この同情しにくい身内の為を思い、相手の為になる(決して「喜ぶこと」ではなく)行動を取るのは、とても難しいことです。正直、神経が持たないと感じてしまいます。

こういう感覚を持つ人は、「今目の前にいない可哀そうな人」のために働くことで、家族間の正のフィードバックを疑似体験しようと思いがちです。でも、本能的に人とぶつかるのを避けてきたため、経験不足から隣の家の子供の世話にすら尻込みする。結果、SNSで理想論を垂れて良いムーブメントを起こした気になったり、可哀そうなアフリカや中東の子供のために寄付をしてみたり、デモをしてみたりする。
自分が寄付をする動機も、結構これなのかなと思ったりします。

「やらない善よりやる偽善」は正しいと思います。でも、何かの衝動にかられた時、その根っこを直視しないのは不幸の種を温存するようなものだと思うんですよね。
モアイのような団体に入りたいと思ったとき、その理由は何なのか深く考えてみると、意外と新たな道が開けるかもしれません。
っていうかモアイって名前、も○いからクレーム付かなかったんですかね 笑

コミュ力が高すぎるのもコミュ障?

ポンちゃん先輩(松本穂香)の名言。いや、これは実際あると思います。
テン君(清水尋也)は、「なんでそこで気づかない!?」という董介のスパイ行為に全く気付かず、「同じスマホを使っているのが分かって嬉しい」という自分の気持ちだけを相手にぶつけます。

一方の田端君。彼は他人の表情について度々語っています。おそらく表情から相手の気持ちを読み、地雷を避けるのが習慣化していたのだと思います。こういうタイプの人は、自分の言葉によって相手の────とくに言葉としては返って来ない負の感情が手に取るように分かってしまうので、コミュニケーション=疲れる、ということに。実際に言葉として返されなければ分からないタイプの人とは、言葉を発するハードルの高さが全く違うわけです。

一般的に、前者がコミュ強で、後者がコミュ障と呼ばれます。
そして、コミュ強が行き過ぎてコミュ障になった好例が秋好さん。

「平和を望まない人なんていません。たとえ戦争の最中でも、みんなが同じ方向を見ることはできると思うんです。みんなが本当に望めば、戦争は終わると思います」

いや、これ、「キーウの独立広場で、旗立てに来た遺族に言ってみ?」ですよね?

この人って多分、「ケーキ切り分ける悪魔に、最後に残ったヤツ取らせるルールにすりゃ良いじゃん」って言っても、「は?」ってタイプだと思うんですよ。自分はたとえ「最初に取っていい」と言われても平等に切り分けるから。何なら全部他人にあげても良いと思ってるから。きっとみんなも心の底ではそう思っていて、それに気づいていないだけ────。

彼女には、人を救いたいという気持ちはあっても、現状そうなっている原因を理解するつもりも、人の心に寄り添うつもりも、人の気持ちを察する能力もありません。
一方で、この鈍感力が、今まで不可能だと思われていたことを可能とする力になったりもします。

持って生まれた性質は、多少角が取れたとしても無くなるものではありません。結局はそれぞれの人が、「自分という道具をいかにうまく使い切るか」を考えるしかないんじゃないかと思います。

コメディだったら傑作だったかも?

この映画、正直、登場人物に感情移入するのが難しかった・・・。なんかキャラがデフォルメされすぎてるんですよね。
だって田端君タイプの人が、自分の本当に動機に指摘されるまで気づかないってあります?
董介君の「ああいう意識高い系っつーの? 俺は大っ嫌いだね」も、心で思っていたとしても口に出す人は少ない。口に出す前に大抵の人が「なぜ自分がそう思うのか」に思い至ると思うんですよ。
川原さんとポンちゃんも、正反対過ぎて何か作り物っぽい。「100人ぐらい自分がいる」というコメントがすぐ出てくるところも嘘っぽい。
あの教師だって、あの動画がどっかにアップされたら免職ものですよ。

これがコメディだったら、十分笑えて考えさせられたかなと思います。でも変に真面目にやっちゃったから、田端君に近いタイプの人がトラウマ作っただけで終わったんじゃないかという気が───。

ちなみに、これ観てダメージ負った人は、映画『ババンババンバンバンパイア』で、森蘭丸さんの突き抜けた正直ぶりを観ると良いかもしれません。こういうプライドも何もない純粋な欲に従った行動が、意外と人を救ったりするんですよね。